秀吉死後の豊臣家
秀吉の死後、すぐに家康と利家を中心とした豊臣家臣団の軋轢が発生し、この時は家康が利家に、秀吉の遺命を守るという誓紙を入れることで一件が落着します。
しかし利家は間もなく病が原因で死去し、以後は家康の独壇場となります。
家康は他の五大老たちの排除を始め、利家の子・前田利長を傘下に収め、上杉景勝の討伐を計画します。
この時に家康によって引退させられていた石田三成が挙兵し、反家康の派閥を形成します。
家康は唐入りの際の秀吉と三成の対応に不満を持っていたり、家康こそが次の天下人だと見込む諸将の力を糾合し、三成方を「関ヶ原の戦い」で打倒しました。
そして家康は征夷大将軍となって徳川幕府を開きます。
秀頼は摂津と河内の一大名の地位に落とされ、豊臣家は政権を剥奪されます。
その後もしばらくは存続していましたが、やがて1614〜15年にかけての「大坂の陣」で家康に攻め滅ぼされ、秀頼と淀殿は自害して果て、豊臣家はあえなく滅亡しています。
秀吉が一代で築いた統一政権はわずか10年しか続かず、その後を引き継ぎ、国内の安定に力を注いだ家康の手によって、真の戦国時代の終わりが訪れることになりました。
秀吉の功罪
秀吉は信長がその途上で終わってしまった、130年にも渡って続いた戦乱の時代を終わらせる事業の完遂に成功しており、その点では歴史に大きく貢献した人物だと言えます。
秀吉の行った政策は家康に引き継がれたものも多く、秩序を安定させるための下地の形成にも成功していました。
しかし当人は戦乱の時代の人であることから抜け出せず、統一後には海外遠征を盛んに行い、いたずらに国内を疲弊させることになってしまっています。
また、実子を後継者にしたいという欲求にかられ、せっかく仕立てた養子の後継者を抹殺してしまい、自らの政権を不安定なものにしてしまいました。
「馬上で天下を制しても、馬上で天下を治めることはできない」という言葉がありますが、秀吉はそのあたりの切り替えができない人物だったのでしょう。
信長の手によって武将として仕立てられ、出世頭となりましたが、その時に植え付けられた、どこまで上昇し続けるべきだ、という思いが秀吉の一生に取りついていたのかもしれません。
放浪者から最高位の関白にまで昇った人物は秀吉しかおらず、その人生は空前絶後のものでした。
それゆえに秀吉には人生の先行事例がなく、自分が身をおくべき場所を最後まで見いだせなかったのだとも考えられます。
このため、その政権は死後にもろくも崩れ去り、長く続くことはできなかったのでしょう。
秀吉は「夢のまた夢」という辞世の句を残していますが、その一生は物語の中の人物であるかのような、不思議できらびやかな道筋によって彩られています。
同時に、その痕跡は夢のようにはかないものでもありました。