豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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北近江でのにらみ合い

秀吉は伊勢の戦いを蒲生氏郷と織田信雄に任せ、自身は主力を率いて近江の木ノ本に布陣します。

勝家も秀吉も、どちらも砦を各地に築き、野戦築城を進めて防御を固めます。

ともに歴戦の指揮官であったため、容易に相手に勝てるとは思っておらず、序盤は互いに慎重な戦術に終始します。

近江に領地を持っている丹羽長秀は秀吉に味方し、琵琶湖に船を出してこれを封鎖しました。

着陣はしたものの、どちらも攻めかからない状況が続き、秀吉はいったん長浜城へと帰還します。

やがて4月になると、降伏した信孝が再度挙兵し、稲葉一鉄の城を攻撃しているという知らせが届きます。

勝家の進軍を聞いてこれを好機と捉えたのでしょう。

これを受け、秀吉は信孝から受け取っていた人質を処刑します。

信孝は母や娘を見捨てて挙兵をしたわけで、かなり軽率な人物であったと思われます。

秀吉はすぐに美濃へと進軍しますが、途中で川が氾濫したために、西美濃にある大垣城に入って様子を見ることになります。

佐久間盛政の猛攻

北近江では、秀吉が美濃に移動した機を捉え、勝家の重臣である佐久間盛政が攻撃を開始するようにと主張します。

勝家ははじめこれを受け入れませんでしたが、盛政が何度も強硬に主張したため、やがて攻撃を許可します。

ただし、秀吉の軍に打撃を与えたら、直ちに退却するようにという命令を付与していました。

相手が歴戦の秀吉なので、陣の構えを崩せばそこを突かれて敗北する可能性が高いと勝家は考えてたのです。

しかし若き猛将である盛政はそのあたりの機微を理解しておらず、これが柴田軍に災いをもたらすことになります。

盛政は秀吉の前線の砦である大岩山砦を猛攻し、ここを守っていた中川清秀を討ち取ります。

中川清秀も武勇に優れた武将でしたが、盛政の勢いがそれに勝っていたことになります。

さらにその後方に位置していた黒田官兵衛の陣にも攻撃をかけますが、官兵衛はこれを持ちこたえて防ぎきりました。

すると盛政は近くの山に陣を構えていた高山右近にも攻めかかり、これを敗走させます。

こうして秀吉が不在の間に、羽柴軍は窮地に陥りました。

この様子を琵琶湖上から察知した丹羽長秀は、2000の軍を上陸させて羽柴軍の救援に向かいます。

そして撤退中の部隊を引き止めて軍勢をまとめると、盛政の部隊に逆襲をしかけ、これを撃破し、かろうじて賤ヶ岳砦の確保に成功します。

この丹羽長秀の機転のおかげで、羽柴軍の崩壊は防がれました。

このあたりの動きに、信長によって鍛えられた歴戦の武将たちの戦場での駆け引きを見ることができます。

この戦況を聞いた勝家は、盛政の突出によって陣形が乱れたことに危機を感じ取り、すぐに撤退して防備を固めるようにと命じます。

しかし攻撃の成功に気をよくしたのか、盛政はこの命令を無視し、敵中にとどまって野営します。

この知らせは直ちに秀吉の元に届き、秀吉は「これで天下はわしの物になった」と快哉をあげました。

盛政を攻撃してこれを突き崩し、ついで勝家の軍を崩壊させる戦術が思い浮かんだものと思われます。

そして秀吉は、すさまじい行軍速度で賤ヶ岳へと取って返します。

【次のページに続く▼】