豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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羽柴秀吉への改名

北近江の領主となった秀吉は、新しい姓を名のることにします。

木下は雑用係の時代から使っていた姓なので、人々の受ける印象がどうしても軽くなってしまいます。

このため、大名になったことを契機に、新しくそれにふさわしい姓に変えることにしたようです。

秀吉は信長の重臣である丹羽長秀と柴田勝家からそれぞれ一字ずつをもらい、「羽柴」という姓を作っています。

これには急速に出世を遂げた自身への、織田家中からの風当たりを弱めようとする意図もあったと思われます。

姓の一字を与えたことになる両者も悪い気はしないでしょうし、同時にこの両者と同等になっても超えるわけではない、という意識を表明したことになります。

大名になったことで信長の他の家臣たちからの嫉妬や反発を受けることもあり、秀吉はかなり気をつかってこの姓を作ったのでしょう。

このあたりのふるまいを見るに、秀吉は処世の感覚も優れていたようです。

遠江での経験から、人の嫉妬の怖さをよく知っていたことも影響したかもしれません。

ともあれ、こうして信長傘下の大名として「羽柴秀吉」が誕生しました。

北近江の統治と人材の発掘

秀吉は北近江を支配するようになると、新しく長浜に拠点を構えます。

長浜は琵琶湖に近く、また街道沿いの平地にあったため、人が訪れたり物資を運んだりしやすく、発展させやすい土地柄でした。

浅井氏が本拠として用いていた小谷城は、山奥にあったために防御力は高かったのですが、そのぶん城下を開発しにくいという欠点があったので、そこは用いませんでした。

こういった拠点設計の方針は信長が好んで用いており、秀吉はこれを真似たことになります。

秀吉は何かと信長を師として学んでいたようで、その政策には類似点が数多く見受けられます。

元が放浪児であったことから、信長に側仕えをしてから学んだことは実に多かったでしょう。

そういった学習能力の高さが、秀吉の強みのひとつであったと言えます。

秀吉は長浜の年貢や労役などを免除したため、近隣の住民たちが移住するようになり、すぐに賑やかになっていきました。

秀吉は税金の安さ目当てに長浜にばかり人が集まるのを嫌い、これを引き締めようとしますが、おねの進言によってそのままにしています。

また、人材の発掘にも取り組み、地元から石田三成や大谷吉継らの若い人士を得ています。

おねの元では以前から加藤清正や福島正則らが養育されており、これらの若者たちを小姓にして側仕えをさせつつ、武将や行政官になるために必要な能力を身に着けさせていきました。

また、おねは遠征に出かける秀吉の留守を守っており、城主を代行する立場にもありました。

こうして秀吉の大名としての実力はおねに助けられ、着実に増大していくことになります。

信長からおねへの手紙

一方で、秀吉はおねとの間になかなか子どもが生まれなかったことから、何人も側室を抱えるようになり、これがおねの悩みの種となっていました。

そしておねは秀吉の浮気を信長に相談し、秀吉をしかってやってほしいと訴え出ます。

信長はこれを受け、秀吉を「ハゲネズミ」と呼んで、そなたのように立派で美しい妻がいるにも関わらず浮気をするとはけしからんと述べ、おねに同情しつつ、ものやわらかく秀吉の助けになって家宰に励むようにと促す手紙を送っています。

信長は家庭における夫人の役割を重視しており、大名の妻になったおねに、それにふわしい意識を持つようにと諭しました。

こういったところに信長の意外に温かい人柄と、家臣の家族たちとの距離の近さをうかがい知ることができます。

ちなみに信長は秀吉のことを普段は「猿」と呼んでいたようですが、この時の「ハゲネズミ」といい、何かとあだ名をつけるのが好きな人でもありました。

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