豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

スポンサーリンク

京都で大茶会を開く

西日本の制覇を完了した秀吉は、1587年の10月に京都で北野大茶会というイベントを開催します。

これは千利休や津田宗及ら、当代の茶道の名人を集め、茶碗さえ持ってくれば誰でも茶の湯が体験できるという企画でした。

さらには黄金の茶室や「似たり茄子」などの名茶器を展示して庶民たちを楽しませ、かつ自分の権威を見せつける意図があったものと思われます。

こうした行いが、後の世でも秀吉が人々から親しまれ、人気を獲得する要因になりました。

秀吉はこうした催し物の企画を好んでおり、後に大規模な花見の会も開催しています。

秀吉は10日に渡って茶会を続けるつもりでしたが、開催初日の夕方に肥後で大規模な反乱が発生したという知らせを受け、急遽これをとりやめて1日で終了しています。

肥後の反乱

佐々成政は肥後50万石という大領を与えられたものの、その統治に失敗して現地の国人領主たちの反乱を引き起こしてしまいました。

これを受けて秀吉は周辺の大名たちに討伐を命じ、これを徹底的に殲滅しています。

そして反乱が収まった後には、佐々成政に責任を取らせて切腹をさせました。

肥後の後任には、子飼いの加藤清正と小西行長に半国ずつを与えて統治させ、ともに25万石の大名の地位を与えています。

この両者は、後に朝鮮討ち入りの際にその先鋒として働くことになります。

聚楽第の造営

秀吉は北野大茶会を開く一方で、京都に豊臣氏の本邸を構えるべくその造営を進めます。

これは平安京の大内裏跡に建築され、「聚楽第(じゅらくだい)」と名付けられました。

秀吉は大坂城からこちらに移って政務を行っていくことになります。

翌年には後陽成天皇の行幸を迎えて饗応し、自身の権威を天下に見せつけ、その統治と人心の安定を図ります。

この年には本能寺の変以後、協力者となっていた毛利輝元が上洛し、正式に秀吉に臣従しました。

さらに刀狩り令を発布し、一般人が武装することを禁止しています。

紀州征伐の項でも述べましたが、この当時は農民でも自衛のためにある程度の武器を備えているのが当たり前のことでしたが、これが各地で反乱や一揆が勃発しやすい原因になっていました。

このため、統治の安定を目指す秀吉は、庶民たちから武器を取り上げる政策を実行に移したのです。

これは兵農分離政策でもあり、それまであいまいなところのあった武士と農民の身分が、はっきりと区分けされることにもつながっていきます。

この政策は江戸時代にも引き継がれ、いくつかの抜け道はあったものの、基本的には生まれで身分が固定される制度が形成されていくことになります。

淀殿を側室に迎えて子を成す

1588年になると、秀吉は淀を側室として迎えます。

淀は信長の妹・お市の方の娘で、秀吉からするとかつての主君の姪ということになります。

織田氏の血を引く娘を側室にしたことで、秀吉は自分の身分の上昇を強く実感したことでしょう。

秀吉にはこれまでにほとんど子がいませんでしたが(秀吉には夭折した実子が1〜2名いたという説があります)、やがて翌年には淀から男子が生まれ、「捨(すて)」と名付けられました。

これは「捨て子は育つ」という言い伝えにあやかるために付けた名前で、秀吉がこの子が丈夫に育つように願っていたことがうかがえます。

秀吉は52才にして実子を得たことになり、この子に後を継がせようと大きな期待をかけることになります。

捨には、しばらくしてから鶴松(つるまつ)という名を与えています。

これによって淀の身分が上昇し、「淀の方」や「淀殿」と呼ばれて豊臣政権に対して影響力を持つようになっていきます。

【次のページに続く▼】