備中攻略戦
播磨・但馬・因幡と各地の攻略に成功した秀吉は、中国地方の入り口に確固たる基盤を築いて戦力を拡充していきます。
そして備前の宇喜多直家が病死し、同地が秀吉の支配下に入ったことから、さらにその奥にある備中(岡山県西部)へと軍を進めました。
なお、この時に秀吉は直家の子、秀家を預けられており、これを大事に養育して、後に政権の幹部として取り立てています。
備中は清水宗治という武将が要衝である高松城の守備につき、秀吉の侵攻を防ごうとしていました。
秀吉は自軍の2万に宇喜多軍の1万を加え、総勢3万で高松城を攻撃します。
そして周囲の支城を攻め落として高松城にも攻めかかるものの、容易に攻め落とせなかったので、いったん軍を引いています。
この時には毛利輝元らが援軍を率いて高松城に向かっているとの知らせも届いており、秀吉は信長に通報しています。
信長はこれを受け、丹波(京都北部)に領地を持つ明智光秀に、秀吉を支援するために山陰地方に出陣することを命じ、自身も備中に下向することを計画します。
こうして援軍の要請をしつつ、高松城の周囲の地形を確認した秀吉は、前代未聞の作戦によってこれを攻め落とすことを企画します。
その作戦とは水攻めでした。
高松城の水攻め
高松城は低湿地にあるため、周囲に大軍を展開しづらく、守りやすいはずの城でした。
しかし秀吉はこれを逆手に取り、近くの川を塞いで周囲を水浸しにし、城をまるごと水中に沈める作戦を思いつき、家臣たちにその実行を命じました。
直ちに堤防を築く工事が開始され、秀吉の軍団は高松城の近くを流れる足守川の封鎖にとりかかります。
この時に足守川の川底を塞ぐのに難儀しましたが、黒田官兵衛の家臣・吉田長利が船を運んで重りを乗せ、船底に穴を開けて沈める手段を提案し、これを実行したところ、狙い通りに川をせき止めることができました。
また、堤防を築くために使う土嚢は、1俵ごとに金銭や米と交換すると触れ回ったため、近隣の住民たちが競ってこれを運ぶようになり、必要な量を短期間で揃えています。
こうして堤防がわずか12日間で完成します。
これは旧暦の5月20日のことで、ちょうど梅雨の時期であったことから降水量が増え、秀吉の狙い通りに周囲は人工の湖と化し、高松城は浸水を受け、さながら水に浮かぶ孤島のようになってしまいました。
秀吉は事前に船を調達させており、それを展開して高松城を包囲しました。
このため、高松城は兵糧の補給が行えなくなり、城が水浸しになって居住性が低下したことから、兵たちの士気が落ちていきます。
5月21日に毛利軍が到着しますが、既に高松城の周囲が水に囲まれていたために手が出せず、協議の末に秀吉に和睦を申し入れることになります。
毛利氏との和平交渉
毛利氏は外交官である安国寺恵瓊を派遣し、窓口となっていた黒田官兵衛との交渉にあたります。
この時に毛利氏は備中・備後・美作・伯耆・出雲の五ヶ国(岡山県と島根県、広島県一帯)の割譲を秀吉に提案します。
これは中国地方の中央部の放棄を意味しており、これを実行すると毛利氏の勢力は大きく削られ、織田氏に対抗することは不可能となります。
この時点で毛利氏は既に、織田氏への抗戦をあきらめつつあったことがうかがえます。
秀吉はこれに加えて高松城主・清水宗治の切腹を要求しますが、毛利氏がこれを拒んだことから、いったんは交渉が停滞します。
清水宗治はこの戦いに際して大将となったばかりで、毛利氏に長く仕える武将ではありませんでした。
このため、毛利氏は清水宗治に対し、その身を犠牲にする必要はなく、秀吉に降伏して生き延びるようにと伝えますが、宗治は「落城する時は自分も死ぬときです」と伝えてこれを断っています。
これに窮した毛利氏は、安国寺恵瓊を高松城に送って宗治を説得しようとします。
宗治は「自分が死ぬことで主家の毛利氏や城兵の命が助かるならたやすいことです」と述べ、自分と重臣たちの自害によって、城兵の助命を嘆願する書面を恵瓊に託します。
吉川経家といい、中国地方には義に厚く、潔い武将が多かったようです。
こうして話がまとまりかけますが、6月3日の夜にある知らせが届き、それが秀吉を驚愕させることになります。
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