豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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信長の上洛

美濃を制した信長は、稲葉山城を岐阜城と改名し、「天下布武」という朱印を持ちいるようになります。

岐阜はかつて中国を統一した周王朝の発祥の地・岐山から取った名前で、信長は岐阜から天下統一を目指すと意志表示をしたことになります。

また、天下布武とは、「天下に武を布いて統一する」ことを示す言葉でした。

そのように、天下への志を明らかにした信長の元に、将軍家の足利義昭から上洛支援の要請が届きました。

また、正親町(おおぎまち)天皇からも朝廷への援助要請が寄せられるなどしており、実力を失っていた当時の権威者たちからも、何かと期待を受ける立場になっていました。

信長はこれらを大義名分とし、1568年に準備を整えると、6万を号する大軍を率いて京都への上洛の途につきます。

南近江での戦い

上洛を果たすには、南近江(滋賀県南部)で反抗する六角義治の勢力を駆逐する必要があり、織田軍はこの攻略にとりかかります。

この時の六角氏は観音寺城に精鋭の1千が籠城し、和田山城に6千を、箕作城(みつくりじょう)に3千を配置して防衛網を構築していました。

そして和田山城に織田軍が攻めかかった機を捉え、観音寺城と箕作城から出撃して織田軍を包囲する作戦を立てます。

信長はこの六角義治の作戦を察知していたようで、裏をかいて奥地にある箕作城を先に攻略するよう家臣たちに命じます。

この攻城戦には滝川一益、丹羽長秀、そして秀吉が参加しました。

箕作城は山の急坂の上にあって防御が堅く、そう簡単には攻略できないはずの城でした。

織田軍は丹羽長秀が3千を、秀吉が2千3百を率いて城への攻撃を開始しますが、六角軍の抵抗が激しく、朝から夕方まで戦い続けても攻め落とせませんでした。

織田軍はいったん引き上げますが、その夜、秀吉は昼間の激戦の直後であるにも関わらず、夜襲を計画してこれを実行に移します。

山の中腹まで数百の松明を設置して準備をさせ、やがてこれに一斉に火をつけさせました。

そして煌々と明るくなった斜面を、秀吉の部隊は素早く登って城への夜襲を開始しました。

昼間の激しい戦いの直後に攻撃を受けるとは、まるで予測していなかった六角軍の意表を突き、秀吉の部隊はこれを散々に打ち負かします。

この夜襲によって秀吉軍は200もの首級を奪って六角軍を城から追い出すことに成功し、わずか一日で箕作城を攻略してしまいました。

箕作城が落城したと知らせを受けた和田山城の兵士たちは、織田軍の力を恐れて逃亡してしまい、六角軍は戦線の維持が不可能になります。

六角義治は抗戦をあきらめ、観音寺城も放棄して甲賀の里に向かって落ち延びて行きました。

こうして戦国大名として長く南近江に君臨した六角氏は滅亡し、信長はわずか数日で上洛への道を切り開いたことになります。

秀吉の鮮やかな攻城戦での指揮ぶりがそれに大きく寄与しました。

この働きによって、信長は秀吉の作戦能力を高く評価するようになり、やがて大軍を預けるようにもなっていきます。

上洛を成し遂げ、京都の奉行に任命される

当時の京都は三好三人衆という武将たちに占拠されていましたが、信長が大軍を率いて上洛を開始し、あっさりと六角氏を撃破してしまったことを知ると、これを恐れて逃亡します。

このため、信長は容易に京都に入ることができました。

そして信長に推戴された足利義昭は、室町幕府の15代将軍の地位につきます。

こうして信長は日本の政治の中心地に勢力を築くことに成功しました。

京都を支配下に治めた信長は、秀吉や明智光秀、丹羽長秀らを京都奉行に任命します。

京都奉行はこの時代の首都の行政担当者ですので、秀吉の統治能力を高く評価していたことになります。

秀吉はこのように、この頃にはすっかりと信長の重臣の仲間入りをしていました。

なお、この時は明智光秀はまだ信長に仕えたはじめたばかりの時期で、こちらもまたかなりの抜擢を受けていたことになります。

信長は秀吉に限らず、新参の者でも能力があればどんどん登用を進めていくため、秀吉の立場も安泰とは行きませんでした。

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