豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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賤ヶ岳の戦い

秀吉はその軍勢を、大垣城から賤ヶ岳までわずか5時間で走破させました。

この間には50キロの距離があり、万を数える大軍の行動速度としては常識外れのものでした。

街道に松明をともして明るさを保ち、各所に食糧や水の補給所を設け、さながらマラソンの給水所のようにそれを用い、兵士たちを休まずに行軍させたようです。

この急行軍によって羽柴軍の陣地に深入りしていた盛政の部隊を包囲し、翌日には猛攻を開始します。

盛政は意表を突かれた形になりましたが、奮戦してこの攻撃を防ぎつつ、勝家の本隊と合流するために後退を開始します。

盛政の指揮能力は優れており、秀吉の追撃を振り切りつつ撤退に成功しています。

これを見た秀吉は柴田勝政の陣に攻撃目標を変更し、こちらを切り崩していきます。

余裕ができた盛政がこの救援に入り、戦いは激しさを増していきました。

この時に秀吉は、自身の側にいた近習たちにも戦闘に参加するように命じています。

そして加藤清正、福島正則、石田三成、大谷吉継らが前線で戦い、それぞれに武功を上げました。

この時に活躍した武者たちは「賤ヶ岳の七本槍」、あるいは「三振りの太刀」と呼ばれ、後に秀吉の元で立身していくことになります。

やがて秀長配下の藤堂高虎が率いる鉄砲隊が、盛政の陣を射撃して大きな損害を与え、これを受けてついに盛政の隊は撤退に追い込まれます。

前田利家の撤退

じわじわと柴田軍が不利になっていく中で、その後方に位置していた前田利家が、戦況が激しくなる最中に、突如撤退を始めてしまいます。

これを見た他の後方の武将たちは、柴田軍が敗れたものと誤認し、連鎖的に撤退を始めてしまいました

この結果、柴田軍は裏側から崩壊を始めてしまい、やがて前線も支えきれなくなって壊滅します。

勝家の本隊も羽柴軍からの激しい攻撃を防ぎ切れずに崩れ去り、勝家はわずかな供に守られて戦場を落ち延びました。

利家の徹底は予想外だったでしょうが、勝家が危惧したとおり、突出した盛政が全軍の崩壊を招くことにもなりました。

こうして秀吉は勝家に勝利することになります。

前田利家は秀吉と昔から友人関係にあり、その娘二人を秀吉の養女として与えるほどに深い関係でした。

一方で利家の領地は能登にあり、北陸方面の司令官であった柴田勝家の指揮下に入っていたので、こちらにも何かと世話になっていたようです。

その流れで勝家に味方していたのですが、内心では友人である秀吉のことも気にかけており、戦いには乗り気ではなかったのでしょう。

このため、戦わずして撤退する選択をしましたが、それが結果として勝家を大敗させることになりました。

こうして秀吉は、友人である利家の支援によって、強敵を撃破することに成功しました。

勝家の最期

秀吉は越前の府中城に籠城した利家に使者を送り、これを降伏させます。

そして勝家の追撃軍の先鋒に任じ、秀吉の味方であることを明らかにさせました。

勝家は居城である越前北ノ庄城に撤退しており、秀吉はこれを包囲して追いつめます。

その翌日に、勝家は夫人のお市の方とともに自害して果てました。

勝家は家臣たちに、これまでの功労に報いることができなくなることだけが残念だと述べ、潔く死を迎えたようです。

お市の方の娘たちは秀吉が引き取り、親族である織田信雄に預けました。

この娘たちは実父の浅井長政に続いて二度目の父と、今度は母の死をも見て、落城を経験したことになります。

いかに戦国の世だとは言っても、非業な運命だと言えるでしょう。

【次のページに続く▼】