信長の四男・秀勝を養子として迎え入れる
この頃に秀吉夫妻は、信長に願い出てその四男を養子として迎え入れています。
これによって秀吉の勢力は織田氏のもの同然になったことになります。
秀吉が出世してどれだけ領地をもらおうとも、最終的には主家である織田家の元に返っていくことになり、信長からすれば、安心して秀吉をさらに出世させられることになります。
実子が生まれないのであれば、信長の子どもに継承させることにして、羽柴家の立場の保全を図ったほうがよいのではないかと、秀吉とおねは判断をしたようです。
秀勝を授けるのは、信長からすれば我が子を人質として秀吉に預けることにもなるため、それだけ信長から信用されていたことの証だとも言えます。
こうして秀吉は主君との間に深い関係を結び、羽柴氏の立場をより強固なものとしています。
この子には、秀吉の最初の子どもの名前である、「秀勝」を与えて名のらせています。
秀吉にとってこの名前には重大な意味があったようで、後に別の養子にも秀勝を名のらせています。
秀吉の養子たち
秀吉には他にも友人の前田利家から二人の娘を養子としてもらい受けて養育しています。
他にも親族たちの中からめぼしい子を養子としてもらいうけ、羽柴氏の一族として育てました。
実子がいなかったことからこうした措置が取られ、秀吉の一家はそのような姿で形成されていきます。
他には秀俊という養子もおり、こちらは後に小早川秀秋と名のり、秀吉の作った政権に大きな打撃を与えるという、数奇な運命をたどることになります。
宇喜多直家が織田氏に降る
有岡城の攻防戦が終了すると、復帰した黒田官兵衛は備前(岡山県)を支配する宇喜多直家への寝返り工作を開始します。
直家はかつて、同地を支配する浦上氏の家臣でしたが、謀略の限りを尽くして主君を追い落とし、備前の新たな支配者となっていました。
その後は毛利氏に服属して勢力を保っていましたが、有岡城の落城によって織田氏が優勢になると見たのか、官兵衛の説得を受け入れて秀吉に寝返っています。
しかし信長は謀略や裏切りを繰り返してきた直家を信用せず、秀吉が勝手に寝返りを受け入れたことを叱責しています。
現場の秀吉からすれば、直家は信用し難い人物だといっても、織田方の中国地方の基盤が脆弱なうちは利用価値があると見ていたのでしょうが、信長からはなかなかその理解が得られなかったようです。
この頃の信長は畿内にとどまっていることが多くなり、秀吉ら遠征軍の指揮官たちとの認識の共有や、意思疎通に齟齬を生じ始めていたことがうかがえます。
ともあれ、備前が秀吉の勢力圏になったことで、毛利氏は播磨に支援を送ることが難しくなり、情勢は秀吉の優位に傾いていきます。
三木城の干殺し
宇喜多直家が寝返った後、秀吉は引き続き三木城の攻略に取りかかります。
秀吉はまず、三木城への食糧補給の中継点となっていた播磨の淡河城(おうごじょう)などを攻略しました。
これによって三木城は孤立し、物資の補給が困難になりました。
この事態を受け、毛利氏が食糧を運び入れるために軍を播磨まで派遣してきます。
秀吉はこれを撃退し、毛利軍を迎え入れようとした別所氏の武将を討ち取って補給路を完全に遮断します。
秀吉は自分から積極的に攻めかかることはせず、討って出てきた別所軍を撃退するにとどめ、じわじわとこれを追い詰めていきました。
1580年の1月になるとついに城内の食糧がつき、ついに秀吉に降伏しました。
当主の別所長治が切腹し、代わりに城兵たちの命を助けるというのが和睦の条件でした。
秀吉はこれを受け入れ、2年にわたって続いた三木城の攻略戦もようやく完了します。
秀吉は有岡城と三木城の攻城戦に時間がかかったことを見て、以後の攻城戦では迅速に攻城戦を完了させるための策を用いていくことになります。
いずれも独創的な発想に基づくもので、この頃から秀吉の作戦能力は一段と高まっていきました。
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