豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

スポンサーリンク

松永久秀の謀反

松永久秀は信長が上洛する以前から、畿内に勢力を持っていた有力な武将でした。

そして信長の上洛時に服従し、大和(奈良県)を支配することを認められています。

しかし、信長への包囲網が敷かれていた時代に謀反を起こしていたため、信用を失ってさほど用いられなくなっていました。

このことから、二度目の謀反によって勢力を盛り返すことを企んでいたようで、織田軍団が北陸に出払った隙をついて挙兵しました。

これに慌てた信長は書簡を送って懐柔しようとしますが、久秀はこれを受け入れません。

このため、信長は討伐軍を大和の信貴山城に送り込みます。

この時に秀吉にも出動命令が下り、謹慎が解かれることになりました。

北陸に大軍を送っており、畿内に残っていた部隊は少なかったので、信長からすれば背に腹は代えられない、といった心情だったと思われます。

やがて能登攻略後に謙信の活動が停止したことから、北陸に向かっていた部隊が畿内に引き返し、こちらも信貴山城に向かうことになります。

信貴山城は大軍に包囲され、二度の攻城戦の果てに落城し、松永久秀は自害して滅亡しました。

謙信の活動を当て込んで謀反を起こしたものの、はしごを外された結果に終わったことになります。

こうして秀吉は謹慎こそ解かれたものの、まだ信長から完全には許されておらず、さらに功績を立て、失った信頼を挽回しなければなりませんでした。

中国地方の攻略

1577年の10月に、秀吉は信長から中国地方の攻略を命じられます。

当時の中国地方は毛利氏の支配下にあり、数万の大軍を動員できる強敵でした。

信長にとって最大級の敵の対応を命じられたことになります。

秀吉は、まず初めに中国地方の入り口となる播磨(兵庫県南部)に出陣します。

播磨には同地をひとつに束ねられるほどの大きな大名家は存在せず、赤松氏や別所氏、小寺氏などの諸豪族が分割して統治していました。

秀吉はこれらの諸勢力を従属させ、わずか一ヶ月ほどで播磨を支配下に置いています。

この働きを信長から賞賛され、ようやく命令違反への怒りも収められたようです。

この時に秀吉の播磨支配がうまく進んだのは、小寺氏の家老であった黒田官兵衛が積極的に秀吉に協力したからでした。

官兵衛は信長の勢力が今後さらに伸長し、やがて中国地方をも支配するだろうと予想しており、このために家中や他の豪族を説得して織田氏に味方したのです。

秀吉はこの官兵衛の能力と見識を見込み、重用していくようになります。

やがて官兵衛は秀吉に自身の居城である姫路城を譲り渡し、ここを中国地方攻略の拠点とするように勧めます。

姫路城は、当時はまだ田舎の小城であるに過ぎませんでしたが、官兵衛が見立てた通り、後に畿内と中国地方を結ぶ重要拠点として発展していくことになります。

上月城の攻略

上月城(こうずきじょう)は播磨と備中(岡山県)の国境沿いにある山城で、織田氏と毛利氏の勢力圏の境界にあったことから、戦略的に重要な意味を持っていました。

秀吉は毛利方に属していたこの上月城を攻め落とし、尼子氏の武将たちに守備を任せます。

尼子氏はかつて山陰地方に大きな勢力を築いていた大名でしたが、この頃には毛利氏に領地を奪われて衰退していました。

尼子氏の残党は信長に復興の支援を求め、信長もその利用価値を認めて傘下に加えています。

この中には「我に七難八苦を与えたまえ」と言って尼子氏の復興を志した、山中鹿之介という高名な武将も含まれていました。

秀吉は毛利方の最前線である上月城の攻略に成功したことで、中国地方に攻め入るための糸口をつかみ、播磨の諸豪族たちへの影響力を強めていきます。

しかし播磨の政情は不安定で、そうやすやすと秀吉の支配が確立されることはありませんでした。

【次のページに続く▼】