豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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千利休に自害を命じる

秀吉はこの年に千利休に自害を命じています。

千利休はわび茶の創始者として知られる人物ですが、秀吉の政権に深く関与しており、各地の大名たちと豊臣政権の間を繋ぐ役割を、秀長とともに担っていました。

しかしこの頃には秀吉に疎んじられるようになっており、二人の間を取り持っていた秀長が亡くなったことで、秀吉は利休を切り捨てる決断をしたようです。

この両者の間には、茶道の美学をめぐって見解の相違があったという説もあり、長い付き合いの間で、少しずつその関係はこじれていったと思われます。

利休は自身の美学に対して厳格な、求道的な人物で、相手が天下人の秀吉であっても迎合することはなく、それが人を従わせることに慣れてきた秀吉にとっては、なにかと不快だったのかもしれません。

同様に秀吉に心服しなかった人物には黒田官兵衛もおり、彼もまた晩年の秀吉から遠ざけられるようになっていました。

ともあれ、こうして秀長と利休というふたりの腹心を失った秀吉は、代わりに石田三成らの奉行衆を重用していくようになります。

しかし三成らは秀長たちと比べると調停能力ではかなり劣っており、これが豊臣家の家臣同士の軋轢を生み出す原因となっていきます。

文禄の役のはじまり

この1591年の8月には、秀吉はついに唐入りを実行に移すことになります。

もとより秀吉は李氏朝鮮との間に交渉を行い、明への討ち入りに協力するようにと要請していましたが、明の属国である朝鮮がこれを受け入れるはずもなく、交渉は頓挫していました。

このため、秀吉は朝鮮半島を武力制圧するために大軍の派兵を決意します。

朝鮮にとっては迷惑な話ではありましたが、秀吉の勢力拡大の野心は、日本を統一しただけで収まることはありませんでした。

あるいは、そうすることで師であった信長を越えようとしたのかもしれません。

この時に秀吉は15万の大軍を動員するとともに、自ら肥前(佐賀県)に築いた名護屋城に出向いて指揮を取ります。

秀吉は自ら渡航して現地で指揮を取ることも考えていましたが、重用する前田利家や徳川家康に諌められて断念しています。

この時に、総大将は秀吉の養子でもあった宇喜多秀家が任じられました。

これは秀吉が唐入りを表明した際に、秀家がまっさきに賛成の意志を表明したためです。

1592年より、加藤清正と小西行長がそれぞれ先鋒として二手に別れて進軍し、朝鮮半島を蹂躙していきます。

この時に日本軍は火縄銃を装備していましたが、朝鮮軍はもっと古い時代の火器しか備えていなかったため、序盤は日本軍が圧倒的な強さを見せつけました。

そして開戦から20日ほどで朝鮮の首都である漢城府まで攻め落とし、その占領に成功します。

この時に朝鮮の府民は日本軍に食糧の提供を積極的に行っていたという記録があり、民の李氏朝鮮政府への支持は高くなかったようです。

また、間もなく加藤清正は朝鮮の王子二人を捕らえるという戦果もあげています。

秀吉の構想

秀吉はこの戦勝の報告に気をよくし、数年後には北京に遷都して後陽成天皇に行幸してもらい、秀次を大唐関白(中国の支配者)に任じる、という誇大な願望を記した朱印状を秀次に送っています。

さらに天皇が中国に移った後には、その皇子を日本の天皇として新たに即位させればよい、とも書いていたようです。

これにより、秀吉は明を倒して中国大陸に日本人による政府を樹立し、日本と朝鮮と中国にまたがる大帝国の建国を構想していたことがわかります。

誇大妄想のようにみえるかもしれませんが、歴史上ではしばしば中国の周辺諸国の権力者が、中国大陸の征服を目論む事例があります。

ですので、秀吉もそれを目指した勢力のひとつなのだと解釈すれば、必ずしもそれはただの夢想であったと片付けられるわけでもありません。

事実、これから数十年後に、中国の北東の辺境から勃興した満州族が中国全土を支配し、明に代わって清を建国するという事象が発生しています。

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