豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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足軽組頭になる

その後、秀吉は戦闘にも参加するようになり、足軽組頭という下級指揮官の身分になりました。

当時は戦乱の時代なだけに、内政官よりも武官の方がより多くの出世を望める状況にありました。

このため、秀吉は自ら信長に望んで、兵士たちを指揮して戦闘に出られる身分にしてもらったのだと思われます。

秀吉自身は体が小さく、腕力もさほど強くなかったため、戦場で槍や刀を振るって活躍するのは難しく、主に作戦能力や調略の面で信長の覇道に貢献していくことになります。

おねと結婚する

信長の元である程度の身分を得たことから、1561年に秀吉は結婚をします。

相手は信長に弓衆として仕えていた浅野長勝の養女、おねでした。

この結婚にはおねの実母が反対しましたが、それをおね自身が押し切る形で結婚しています。

こうした事情から、当時としては珍しい恋愛結婚だったのだろうと言われています。

この時の秀吉はまだ貧しかったようで、結婚式は長屋の一室で、わらの上に薄布を敷いて、その上で行われました。

おねは賢く、そして能力のある女性で、この結婚は秀吉の出世をおおいに助けていくことになります。

このように、織田家に仕官してからというもの、秀吉の人生はあらゆる意味で変わっていきました。

織田家は新興の武家らしく発展性に富み、外に開けた家柄だったので、秀吉のように素性の怪しい人間にとっても居心地がよかったのでしょう。

尾張は商業活動が盛んな地域で、人の流出入が激しく、そのような土地柄も影響していたと思われます。

美濃攻略戦

秀吉が結婚をした頃、尾張を統一した信長は隣国の美濃(岐阜県)の攻略に取りかかっていました。

1561年に美濃の当主・斎藤義龍が急死しており、その後を息子の龍興(たつおき)が継いでいます。

この龍興は惰弱な人物で、家臣たちからの人望が薄く、信長にとっては美濃を奪い取る絶好の機会となっていました。

信長は美濃に攻め込んで城を奪取するのと合わせて、工作をしかけて各地の城主たちを寝返らせる活動も盛んに行っていました。

この時に秀吉は信長から工作を任されており、松倉城や鵜沼城といった美濃の拠点を織田方に寝返らせる功績を立てています。

秀吉は「人たらし」と呼ばれるほど人との交際や交渉ごとに長けており、その才覚を活かして活躍しました。

また、この頃から「木下秀吉」という名を用いており、松倉城主あてに、領地の安堵を約束する書状を送った記録があります。

信長から軍を預けられて城の攻略に向かったこともあり、美濃攻略戦の過程で、秀吉は部隊長のひとりにまでのし上がっていました。

元々が雑用係でしかなかったことを思うと、異常なまでの出世の速度だと言えるでしょう。

それほどに秀吉は、相手陣営の切り崩しという仕事に長けていたようです。

信長の人材活用方針

信長は生まれながらの大名でありながらも、若い頃から町人たちとも親しく付き合うなど、身分によって人を差別しない性格の持ち主でした。

低い身分の兵士たちにも気さくに声をかける人柄で、幅広い層から人気を得ています。

これは人材の用い方にも現れており、出自にこだわらず、能力のある者をそれにふさわしい身分に取り立てていくという方針を取っていました。

このため、低い階層の出身であった秀吉でも、信長の元であればいくらでも出世ができるチャンスがあったのです。

秀吉自身も出世意欲は旺盛であり、自分から積極的に様々な仕事を与えてくれるようにと信長に申し入れていました。

そして実際に任せてやらせてみると、いつも抜群の功績を上げることから、信長は秀吉を気に入って短期間で身分を引き上げていきました。

信長の性格と秀吉の能力が合わさって、このような異例の出頭人が誕生したことになります。

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