豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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墨俣(すのまた)一夜城

1566年ごろまでに東美濃を制した信長は、残る西美濃を攻略するための橋頭堡として、墨俣の地に城を築くことを計画します。

しかし墨俣は織田氏と斎藤氏の勢力圏の狭間にあり、ここに城を築くのはかなりの困難を伴いました。

信長の重臣たちがこれにとりかかるものの、斎藤方の妨害を受けてなかなか成功しません。

そこで秀吉が自分に任せてくれるようにと名のり出て、墨俣での築城にとりかかります。

この時に秀吉は、美濃の野伏たちを束ねる川並衆の頭領、蜂須賀小六に協力を求めました。

野伏は傭兵稼業を行う荒くれ者たちで、戦闘が起こる度にどこかに雇われて、織田方についたり斎藤方についたりして戦っていました。

また、戦場に遺棄された武器や物資を拾って売り払うといった、追い剥ぎのような稼ぎ方もしていました。

秀吉は放浪時代に蜂須賀小六に世話になったことがあり、その縁を活用したようです。

秀吉はあらかじめ築城の建材を他の土地で組み上げて、それを解体してから現地に運び込みむという計画を立てます。

一から新築するよりも、既に組んだものを再度組み上げる方が工期を大幅に短縮できるわけで、そのような工夫と知恵を用いることで、敵前での建築という、困難な仕事の達成を図りました。

秀吉は先に城壁を作り上げて築城中の墨俣城に防御力をもたせるようにし、後から内部の居住区などを作るという方式により、斎藤方の妨害を跳ね除けて築城を成功に導きました。

このあたりはかつての普請奉行としての経験が生きたのでしょう。

この功績によって信長から墨俣城主に任じられ、織田氏への仕官が許された蜂須賀小六を家臣に加えることになります。

この成功によって信長からさらに一目おかれ、家臣団の中でも際立って目立つ存在となっていきます。

なお、この墨俣一夜城は後世の創作だという説もありますが、この頃に秀吉が前線の城の守備についており、信長から重要な役割を任されていたのは確かなようです。

稲葉山城の落城と竹中半兵衛の勧誘

墨俣城築城の影響もあり、1567年には西美濃の実力者である美濃三人衆が信長に寝返ります。

これによって斎藤龍興の勢力は、いよいよその本拠である稲葉山城の周辺だけに限られることになりました。

龍興を追い詰めた信長は大軍を率いて稲葉山城を包囲し、これを落城させて龍興を美濃から追放します。

こうして信長は尾張と美濃の二ヶ国を支配する大大名の地位を手に入れ、天下の統一に向けて躍進していくことになります。
(この二ヶ国だけで100万石を超えるほど、尾張と美濃は豊かな土地柄でした。)

この頃に秀吉は信長に願い出て、竹中半兵衛という武将を自分の与力として迎え入れています。

与力とは、信長の直属の家臣でありながら、他の武将の指揮下に入る立場です。

信長は秀吉をリーダーのひとりとして認め、他の武将たちをその命令に従わせるほどに重用していたことになります。

竹中半兵衛は斎藤龍興の家臣でしたが、1564年に、わずか十数名の部下と共に稲葉山城を奪取したことがありました。

以後は斎藤氏から離れて領地にこもっていたのですが、その軍略の才を見込んで秀吉が織田家に加わるようにと勧誘しています。

また、この頃には弟の秀長も家臣団に加わっており、秀吉の元で働く人材も充実していきました。

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