豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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前哨戦

秀吉はまず美濃に領地を持つ池田恒興を調略して味方につけ、3月13日に尾張の犬山城を占拠させます。

池田恒興は信長の乳兄弟で、織田家の譜代の家臣でしたので、当初は信雄に味方すると見られていました。

しかし実際には、信雄を見捨てて秀吉に味方したことになります。

この頃にはそれだけ秀吉の権力が大きくなっており、求心力も高まっていたということなのでしょう。

また、秀吉の元に信長の四男・秀勝がいたことも、恒興が秀吉に味方しやすくなる要因になっていたとも考えられます。

この侵攻を受けて家康はただちに出陣し、2日後の3月15日には尾張北部にある小牧山に布陣しました。

この頃に美濃に領地を持つ猛将・森長可(ながよし)も秀吉に味方して出陣し、犬山城の先の羽黒まで軍勢を差し向けています。

あわよくば着陣したばかりの家康軍を、野戦で破ってやろうという意図があったようです。

しかしこの動きは家康にすぐに察知され、重臣の酒井忠次らの率いる部隊が長可隊に攻撃をしかけます。

長可隊は大軍に包囲されて敗れ、300名の損害を出して撤退しました。

この時の屈辱が、後に長可に危険性の高い作戦を実行させるに至ります。

小牧山でのにらみ合い

家康は森長可を撃退すると小牧山城を占拠し、その周辺に砦を築いて防衛網を構築します。

秀吉も3万の軍を編成して大坂から尾張に向かい、3月27日に犬山に着陣しました。

この頃には互いに防衛網の構築を完了しており、どちらも手出しがしにくい状況になっていました。

このあたりは賤ヶ岳の合戦の時と類似した展開です。

経験豊富な武将同士の対戦では、うかつに手を出したほうが敗れることが多く、両者は防御を固めて相手の出方をうかがいます。

そのまま一週間ほど何事もなく時が過ぎると、やがて秀吉の陣営で動きが生じます。

長久手の戦い

4月4日になると、池田恒興と森長可が秀吉の元を訪れて作戦を提案します。

それは両者の軍を密かに家康の領国である三河に派遣し、各地を襲撃して家康の背後を脅かしてやろう、というものでした。

後方撹乱をして足場を崩すのがその狙いでしたが、軍を分けると各個撃破の対象となってしまう危険性もあり、秀吉はこれをすぐにはこれを認めませんでした。

しかし長可が羽黒の恥をすすぎたいと強く主張したため、ついに秀吉は折れてしまい、作戦を承認することになります。

もともと恒興も長可も、秀吉とは信長の直臣という同格の立場だった武将なので、その意見を強く抑えることができないという事情もあり、秀吉にしては珍しく、失敗する可能性の高い作戦を実行させてしまうことになりました。

秀吉は両者の軍9千に、甥の羽柴秀次と、指揮能力の高い堀秀政の軍勢1万1千を加え、総勢2万という、別働隊としてはやや過剰な戦力をもってこの作戦を実行させました。

三河への撹乱を行うのであれば家康に察知されないよう、少数かつ機動力の高い騎兵中心の部隊で行うべきでしたが、このあたりの秀吉の不安がにじんだ措置も、作戦の成功率を下げることにつながってしまいます。

甥を同行させたのは、恒興や長可に手柄を独占させたくない、という意図もあったのでしょう。

このあたりの味方への配慮や策を施したことにより、奇襲軍とは呼べないような過剰な陣容になってしまいました。

政治に配慮した軍事作戦はたいてい失敗に終わりますが、秀吉もこの蹉跌を踏んでしまうことになります。

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