豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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信孝と滝川一益を討ち破る

勝家が敗北した後、美濃では織田信雄が弟の信孝を降伏させて捕縛し、やがて尾張で切腹させています。

この兄弟は仲が悪く、信雄は信孝に容赦をしませんでした。

伊勢の滝川一益はこの後も抵抗を続けますが、やがて大軍に抗しきれなくなって降伏し、出家することで命までは取られずにすみました。

一益は越前に送られ、柴田勝家に代わって領主となった丹羽長秀の監視下に置かれます。

丹羽長秀は秀吉に協力したことで大きく勢力を増大させ、120万石の大大名になりました。

こうして秀吉は信長死後の織田家中の闘争に勝利し、随一の実力者としての地位を確立します。

なお、賤ヶ岳の戦後に、敵味方の別を問わずに笠を与えて暑さから身を守らせる措置を取り、秀吉は慈悲深く、天下を取るのはこの人の他にいない、という評判を得ています。

この頃の秀吉は、自分に天下人になるふさわしい徳があると喧伝し、名声を得るための行動も取り始めていました。

大坂城の築城を開始する

勝利者となった秀吉は自身の本拠として、大坂に壮大な城を築くことを計画し、この普請を黒田官兵衛に任せます。

この地への築城はもともと信長も計画していたと言われており、秀吉はこれを引き継いだ事になります。

完成後には「三国無双の城」とまで讃えられており、秀吉政権の象徴的な存在として、内外にその威容を見せつけていく事になります。
(この場合の三国は「世界全体」を指します)

北九州を支配する大友宗麟は、大坂城を目の当たりにしたことで秀吉の偉大さを知り、服従することを決意したという逸話があります。

壮大な建築物にはそれだけ強く人の精神に作用する効果があり、秀吉は信長の安土城の建築によってそのことを知ったのだと思われます。

信雄との関係の決裂

賤ヶ岳の合戦の勝利によって秀吉の権力は増大しますが、そうなると今度は織田信雄の存在が邪魔なものとなってきます。

織田家は秀吉にとって主筋ですので、この勢力をそのままにしておくと、羽柴家の政権を開くことができないからです。

このため、秀吉は信雄を臣従させることを考え始めます。

秀吉は手始めに1583年に、信雄に安土城から退去するようにと求めます。

安土城は信長の居城で、織田政権の象徴的な城でしたので、ここから信雄を追い出すことで、秀吉が織田家に代わって政権を担うことを宣言したことにもなります。

これが原因となって両者の関係は冷え込み始めます。

さらに秀吉は1584年の正月に、信雄に年賀の挨拶に出向くようにと促します。

これは事実上、臣下の礼を取るように求めたことになり、織田家の当主となって権勢を振るうことを夢見る信雄は、秀吉と戦うことを考え始めます。

そこで秀吉は信雄の家老たちに調略をかけ、信雄を自分に従わせるようにと働きかけます。

信雄は信長の次男であるという以外にはとりえのない人物で、軍事についても政治についても、その能力は低いものでした。

このため家老たちは秀吉に臣従して勢力を保つことを信雄に勧めますが、自分の能力を正確に認識していない信雄は、その野心のために家老たちを処刑してしまいます。

この対応に秀吉は怒り、信雄討伐のための出兵を決意します。

信雄と家康の同盟

信雄の領地は伊勢と伊賀、そして尾張などがあり、それなりの規模でしたが、中国地方の一部と畿内・北陸を掌握する秀吉と一対一で戦っても勝ち目はありません。

そのため、亡父信長の同盟相手であった徳川家康と同盟を結び、秀吉に対抗しようとします。

家康もまた、秀吉が信長に代わって天下を取ることを認めておらず、これに同意して信雄とともに秀吉と戦う道を選びます。

家康は越中(富山県)の佐々成政、四国の長宗我部元親、紀州(和歌山県)の雑賀衆らに働きかけ、反秀吉同盟を形成しました。

これにより、四国・畿内・東海・北陸にまたがる大きな戦役が勃発することになります。

これを主要な戦場の名前を取って「小牧・長久手の戦い」と呼びます。

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