北条征伐の開始
秀吉は九州征伐後、しばらくは政権の地固めに集中していましたが、やがて関東で異変が発生します。
関東は北条氏直が支配していましたが、秀吉はこれを臣従させるため、家康を通して交渉を続けていました。
しかし北条氏直はなかなか秀吉への臣従を約束せず、秀吉をいらだたせます。
北条氏は中央の情勢をよく把握できておらず、すでに秀吉には抗すべくもないほど勢力の差が開いていることが理解できていませんでした。
そして1589年に北条氏の家臣・猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉に臣従していた真田昌幸の名胡桃城を奪取したことをきっかけに、秀吉は北条征伐を決意します。
各地の大名たちに動員をかけ、秀吉は25万もの大軍をもって関東に攻め込みました。
これに対する北条氏の総兵力は8万程度でした。
秀吉は家康や織田信雄らを従えて20万の軍で東海道を進み、前田利家や上杉景勝、真田昌幸らには北陸から3万5千の兵で関東に向かわせます。
そして伊勢の九鬼嘉隆や、土佐の長宗我部元親らに水軍を率いさせ、海上から物資の輸送を行いました。
秀吉の軍勢は北条氏の前線基地である山中城に攻撃をしかけ、甥の秀次が主力となって奮戦し、わずか1日でこれを攻め落としています。
ついで周辺の諸城を攻め落とし、北条氏の本拠である小田原城を包囲します。
小田原包囲と各地の攻略
小田原城は大規模な改修が行われて堅固な要塞となっており、容易には攻め落とせないことから、秀吉はこれを包囲して持久戦となります。
秀吉は大軍の威をもって北条氏直を降伏させようとし、5月ごろから降伏勧告を行っていました。
一方で秀吉は各地に軍団を派兵し、北条方の重要拠点を攻め落としていきます。
前田利家らが上野(群馬県)や武蔵(埼玉県・東京都)の城を攻め落とし、伊豆方面は長宗我部元親らの水軍が攻略していきます。
武蔵にある成田氏の本拠・忍城(おしじょう)は石田三成が攻略を担当し、秀吉から指示のあった水攻めを行います。
しかし利根川の水量がさほど増えなかったり、堤防が崩れてしまったりしたため、唯一の攻略の失敗例となっています。
このため「三成は戦下手だ」という評判が立つことになり、面目を大いに失ってしまいました。
これが後の関ヶ原の戦いでも響いていくことになります。
なお、この失敗が成田方の甲斐姫が活躍し、三成方を蹴散らしたという伝説が生まれる元になっています。
八王子城の陥落と北条氏の降伏
全体では豊臣方は北条方を圧倒しており、6月には武蔵の要衝である八王子城も落城します。
この時に獲得した首を小田原城に送りつけ、捕らえた将兵の妻子たちを城外で晒し物にしたことで、北条方の士気は大きく低下しました。
さらには小田原城の近くの石垣山に、一晩でできたように見せかけた城を建築し、北条方の度肝を抜きます。
これらのことが重なって、北条方では降伏か抗戦かで議論が紛糾しますが、一向に結論が出ないまま時間が経過し、状況はさらに悪化していきます。
このことから、いつまでも結論の出ない会議を続けることが「小田原評定」と呼ばれ、後世からも揶揄されることになります。
秀吉は従来から北条氏との関わりが深い家康や、織田信雄を窓口として交渉を続け、7月5日にはついに北条氏直に降伏を受け入れさせました。
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