豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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統一の達成

氏直は自身の切腹と引き換えに兵たちの助命を嘆願していましたが、秀吉はこの氏直には自害させずに出家させています。

一方で、秀吉への抵抗を主張していた前当主の北条氏政や、一族筆頭の北条氏照らに責任を取らせて切腹させました。

小田原城の開城を受け、抵抗を続けていた忍城も降伏し、この戦役は終わりを告げます。

この関東での滞陣中に、陸奥の伊達政宗が兵を率いて秀吉の陣営を訪れ、臣従を約束しました。

その他の東北の諸侯たちも秀吉への臣従を誓い、こうして東国も秀吉の支配下に組み込まれまています。

こうして秀吉はついに日本の統一を達成し、応仁の乱以来、130年ほど続いていた戦乱の時代を終結させます。

信長の死から8年後に、秀吉は継承した事業を成し遂げたことになります。

これで後は豊臣政権の安定のために力を尽くせばよかったのかもしれませんが、秀吉はそうはしませんでした。

かねてからの自身の野望である海外進出を達成するために、秀吉は足を止めずに突き進んでいくことになります。

秀吉は戦国の世を終わらせはしたものの、戦いそのものを終わらせるつもりはなかったのです。

関東には東海から家康を移封させ、新たに250万石の大領を与えました。

そして北陸の前田利家とともに、東国の監督をするようにと命じています。

鎌倉に立ち寄る

北条征伐が完了した後、秀吉は鎌倉に立ち寄り、鎌倉幕府を開いた源頼朝の木像と対面しました。

そして「小身から身を起こして天下を平定したのはあなたとわしだけで、言わば我らは天下友だちである。しかしあなたは天皇のご後胤(血を引くもの)で、だから東国の武士たちはあなたに従った。わしは卑賤の出で、氏も系図も持たないものだから、そのわしが天下を平定したことは、あなたの功績よりも優れている」と木像の肩を叩きながら語りかけたそうです。

このあたりに秀吉の自負心と、ユーモアの感覚を見ることができます。

相手は木像でしたが、秀吉は誰かと自分が成し遂げたことの喜びを分かち合いたかったのかもしれません。

一方で天下人という、誰も横に並べない孤独な立場に立たされたことが、この行動に象徴されているとも言えます。

天下統一と各地の大大名

こうして秀吉は天下統一を成し遂げましたが、各地には100万石級の大大名たちが健在でした。

関東に徳川家康が250万石、東北に上杉景勝が120万石、北陸に前田利家が90万石、中国地方に宇喜多秀家が75万石、毛利輝元が120万石、といったように、数万の軍を動員できる勢力が数多く残されていました。

そういった勢力を温存したからこそ短期間で天下が統一できたのですが、一方で政権の基盤が弱いものになってしまったことは否めませんでした。

このあたりは守護大名たちに多くの領地を分け与えたために、将軍家の力が弱まってしまった室町幕府と同じ問題を抱えることになります。

秀吉自身の直轄地は222万石で、直属の家臣たちの領土を合わせれば500万石程度にはなるため、最大規模ではありましたが、他の大名たちの領土が大き過ぎるきらいがあります。

その上、秀吉には年の長けた実子がいなかったことが、豊臣政権の行く末に暗い影を落としていくことになります。

秀長と鶴松の死

天下統一を成し遂げた翌年には、副将として長く秀吉に尽くした弟の秀長が51才で病死してしまいます。

こうして秀吉は政権の柱石を失うことになってしまいました。

さらには後継者になることを期待していた幼子の鶴松もまた病死してしまい、秀吉は激しく落胆し、髻(もとどり。まげの髪を束ねたところ)を切るという行為に出るなどし、悲嘆に暮れました。

50才を超えてから得た子どもだっただけに、その悲しみは非常に大きなものだったのでしょう。

鶴松を失った秀吉は、代わって甥の秀次を後継者に定め、この年のうちに関白を継がせます。

そして自身は太閤(たいこう。前関白の尊称)となり、秀次と権力を分割して保持し、二元体制を敷くようになりました。

こうして豊臣家による関白位の継承がなされ、天下人の地位が継続するめども立ったことになります。

しかし実子に跡を継がせたかったという秀吉の思いはくすぶっていたようで、後にこの時の措置が大きな問題を引き起こすことになりました。

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