陶謙は後漢末期において、徐州刺史を務めた人物です。
若い頃は剛直かつ清廉な官吏として知られていましたが、晩年には悪政を行い、徐州を混乱させました。
そのために、徐州に住んでいた曹操の父が賊に殺害され、激怒した曹操から攻撃を受けて危機に陥ります。
その際に救援に来た劉備を厚遇したことから、『三国志演義』に登場し、陶謙はその名を後世に知られることになりました。
この文章では、そんな陶謙の生涯を書いてみます。
丹楊に生まれる
陶謙は字を恭祖といい、丹楊郡で誕生しました。
132年の生まれで、じわじわと後漢が衰退していく時期に成長していったのだと言えます。
父は余姚県の長官でしたので、それなりの身分を持った家柄の出身でした。
しかし、父は陶謙が幼い頃に亡くなってしまいます。
それでも陶謙は人の世話にならず、自立して暮らしていたために、県の中でその名を知られる存在になっていきました。
甘公に見込まれて婿になる
陶謙は十四才になっても、絹布をつかって軍旗をつくり、竹馬に乗り、村の子供たちを引きつれて遊び回っていました。
言うなれば、そろそろ成人を迎えるような年齢になっても、ガキ大将の立場を続けていたわけです。
陶謙はそんな日々を過ごすうちに、やがて蒼梧郡の太守を務めていた、甘公という名士と出会います。
甘公は陶謙が住む村を通りかかった際に、陶謙の顔を見て、面白い容貌をしていると感じ、馬車を止めて語り合いました。
すると甘公はすっかりと陶謙のことを気に入り、自分の娘を彼の妻にすると約束します。
甘公の夫人はこの話を聞いて大変に怒りました。
「陶家の息子はけじめもなく、気ままに遊びほうけていると聞きますのに、どうして娘をやるなどと約束してしまったのですか」と夫人は甘公を責めました。
すると甘公は「彼は人並み外れた容貌をしている。成長すれば必ず大成するだろう」と述べ、夫人を説得します。
こうして陶謙は甘公の婿となり、以後は遊びをやめ、行動を改めるようになっていきました。
若くして出世する
甘公の見立ては正しかったようで、やがて陶謙は学問に励み、大学の学生になります。
そして州や郡の役所に出仕し、剛直で節義のある人格を、高く評価されるようになりました。
そして茂才に推挙され、廬県の令(長官)に就任しています。
(茂才は地方の優れた人士を、中央に推挙する仕組みです。)
張磐と仲違いをする
県令になった陶謙の上司は、廬江郡太守の張磐という人物でした。
この張磐は、陶謙と同じ丹楊郡の出身で、陶謙の父の友人だったことから、彼に親近感を抱きます。
このため、陶謙が郡城にやってきて、公務の報告をすると、その後で酒を酌み交わすことが多くなりました。
しかし陶謙は上司に親しみすぎるのをよしとせず、張磐との関わりを、自分からは求めませんでした。
張磐は酒が進むと舞い始め、陶謙にもそれに合わせて舞うようにと求めます。
これは当時の酒席において、主人と客の間では、よく行われるやりとりでした。
現代風に言えば、親睦を深めるために一緒にダンスを踊るようなものだったのでしょう。
陶謙は形ばかりは合わせたものの、張磐がしても、身体を回転させる動作はせず、それを咎められます。
「君も旋回すべきじゃないかね」と張磐に言われると、陶謙は「旋回することはできません。旋回をすると、他人を抑圧することになりますので」と答えました。
舞いの時に身体を回転させるのは、より多くの行動の自由を持つことを意味します。
陶謙はあえて旋回しないことで、上司に付き合わされて窮屈な思いをさせられるのは迷惑だ、という意思を表明したのでした。
これを聞いた張磐は不愉快になり、両者の関係は冷えていきました。
部下の不正を糾弾せず
陶謙はこのように、上司に媚びない剛直さを持っており、また清廉な役人でもありました。
ある時、陶謙の部下が公金を着服したことが発覚したのですが、陶謙はそれに嫌気がさし、官位を捨てて廬県から去っています。
陶謙はこうして自身の清潔さは保ちましたが、他人の不正を糾弾する行動はとっていません。
陶謙には正義感というほどのものはなく、自分の身をまっとうすることにのみ、意を砕いていたことがうかがえます。
自己完結する傾向が強い性格だったのだと言えるでしょう。
この傾向が、やがて陶謙の人格を、大きくねじ曲げていくことになります。
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