陶謙 曹操に攻めこまれ、劉備に救いを求めた徐州刺史の生涯

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徐州を混乱させる

陶謙は成功を収めたものの、それを維持できる才覚はもっていませんでした。

徐州の支配を確立すると、やがて無軌道な行動が目立つようになります。

この頃の徐州には、趙昱ちょういくという、忠義心が厚く、誠実なために高い名声を得ていた人物がいました。

そして広陵こうりょう太守を務めていたのですが、陶謙は彼を嫌って遠ざけるようになり、それとは逆に、邪悪な心を持った小人物を信頼して重用したため、徐州は混乱に陥っていきます。

刑罰はでたらめに行われ、法律は均衡を失い、善良な人々が無惨な目にあうことが増えていきました。

賊と結ぶ

さらに陶謙は闕宣けっせんという、勝手に皇帝を名乗った賊と同盟を結び、略奪をして私腹を肥やすようになります。

陶謙は若い頃は、清廉な官吏として知られていましたが、老いて地位が高まると、まったく逆の行動を取るようになったのです。

やがて陶謙は闕宣を邪魔に思うようになり、彼を殺害してその軍勢を吸収し、さらに兵力を増強しました。

このように、陶謙の行動にはまるで道義がなく、高い地位に就きながらも、その精神は賊そのものになってしまっていたのだと言えます。

陶謙はどうして変貌したのか?

思うに、陶謙は自尊心が強く、独善的な性格の持ち主だったのでしょう。

そのために、若年から壮年にかけては、上司とぶつかることが多く、その才能ゆえに許される、という存在になっていました。

そして、地位が上がって自分の好きなようにふるまえるようになると、その人格のために、たががはずれてしまい、無道な行いを平然とするようになったのだと思われます。

若い頃の清廉さも、自分がそうしたいからしているというだけで、芯のすわった倫理観に基づいての行動ではなかったのです。

自身は清らかさを保っても、他人の不正は咎めませんでしたが、そのあたりのふるまいから、陶謙の孤絶した心のありようがうかがい知れます。

曹操と敵対する

徐州の隣にはえん州があり、曹操が支配していました。

そして曹操の父・曹嵩そうすうは徐州のたい山に住んでいたのですが、そこで賊の手によって殺害されてしまいます。

これは陶謙が賊と結び、治安を悪化させたことの結果だと言ます。

このため、曹嵩の死は陶謙の責任だとされました。

父を殺された曹操は激怒し、陶謙を討伐することを決意します。

大敗して危機に陥る

曹操が徐州に攻めこむと、すぐに十以上の城が攻め落とされました。

陶謙は軍勢を率いてほう城に向かい、そこで曹操と決戦を行います。

陶謙にも軍事の才能はありましたが、曹操には劣っており、ここで大敗を喫しました。

陶謙の軍勢は一万人以上が討たれ、泗水しすいで溺死するものが多数にのぼりました。

このために泗水は、遺体で流れがせき止められた、と言われています。

泡を食って陶謙が退却すると、曹操は食糧不足に陥ったため、いったん徐州から兵を引いています。

陶謙はこれまで戦いに勝ち続けることで、その地位を保ち、高めてきました。

ですので、老いてからの初めての大敗によって受けた衝撃は大きく、やがて病を得て伏せるようになります。

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