陶謙 曹操に攻めこまれ、劉備に救いを求めた徐州刺史の生涯

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その後も出世を重ねる

こうして陶謙は廬県を去りましたが、文武に秀でた能力を持っていたため、やがて朝廷に再び召還され、幽州刺史(長官)に昇進しました。

州は郡を束ねる広大な行政区画ですので、かつての上司、張磐よりも出世したことになります。

幽州は異民族との抗争が激しい地域でしたので、ここでは陶謙の軍事能力が求められたのでしょう。

陶謙は幽州での任務を果たすと、中央に呼び戻されて、議郎(軍の統括官)に就任しました。

このことから、幽州でも功績を立てたのだと考えられます。

辺境の討伐に参加する

ちょうど陶謙が中央に戻ったころに、きょう族が西方の国境を越え、後漢の領内に侵入する事件が発生します。

すると朝廷は皇輔嵩こうほうすうを征西将軍に任命し、討伐に当たらせました。

そして皇輔嵩が、討伐の補佐ができる人材を求めたので、陶謙が楊武都尉といに就任し、羌族との戦いに従軍します。

陶謙は皇輔嵩とともに羌族に大勝し、その侵入を防ぐ手柄を立てました。

こうして陶謙は、異民族との戦いで名を挙げていったのでした。

再び西方に向かう

西方の情勢は、いったんは収まったものの、やがて涼州で、今度は韓遂かんすいが反乱を起こします。

すると張温ちょうおんが車騎将軍に就任し、この反乱を鎮圧することになりました。

張温は陶謙に、ともに討伐に向かうことを要請し、たいへんに厚遇をしました。

(ちなみにこの時の張温の陣営には、孫堅そんけんも参画しています。張温は人を見る目はあったようです)

しかし、張温は軍人としては優れておらず、陶謙は彼の指揮能力が低いことを知って、内心で軽蔑し、反感を抱くようになります。

陶謙は自身が有能なだけに、上司が無能なのを、人一倍嫌うたちだったのでしょう。

やがて韓遂らが降伏して反乱が鎮まり、張温たちが都に帰還すると、百官を集めて大宴会が開かれました。

そして張温が陶謙に、酒をついで回るようにと言いつけますが、陶謙はこれを嫌がり、満座の中で張温を侮辱します。

これに張温は立腹し、陶謙を辺境に左遷しました。

陶謙にはこのように、硬骨と言えば硬骨な、偏狭と言えば偏狭なところがありました。

能力はあるものの、扱いにくい人物だったと言えるでしょう。

とりなしを受けて都に戻る

陶謙の左遷を受け、ある人が張温に進言をしました。

「陶謙はその才能と知略によって重用されていましたのに、酒に酔っての失態で追放したのは、徳をまっとうする措置だとは言えません。

これでは、天下の人士は誰に望みを託せばよいのか、わからなくなります。

お怒りをしずめ、彼を元の身分に戻し、美徳の評判を響き渡らせた方がよいでしょう」

すると張温はその意見をもっともだと思い、陶謙を都に帰還させます。

進言をした人は、ついで陶謙に「あなたは張温様に侮辱を加え、自ら罪を作りました。

にも関わらずお許しを得たのですから、張温様の徳は大変なものです。

ですから気持ちを抑え、辞を低くして謝罪されますように」と言いました。

陶謙は「承知した」と言って、まずは皇帝にお詫びを言いに、宮殿に向かいます。

すると宮殿の門のところで、張温と出会いました。

陶謙は張温を仰ぎ見て「私は朝廷にお詫びにあがったのであって、あなたのためではありません」と言います。

これを聞いた張温は「君のうつけはまだ治らないのかね」と言いつつも、陶謙がどのような男かはもうわかっているので、怒りませんでした。

張温は陶謙のために宴会を開き、初めと同じように厚遇するようになります。

この挿話から、陶謙のかたくなさと、張温のおおらかさが伝わってきます。

陶謙は才能はあるものの、それに自負心を持ちすぎて傲岸になっていたところがあり、上役に包容力のある人物を必要としていたのでした。

時は後漢の衰退期であり、反乱があいついでいたからこそ、軍事に秀でた陶謙の才能は必要とされましたが、平和な時代であったなら、ひねくれものとして、世に受け入れられなかったかもしれません。

黄巾の乱が発生し、徐州刺史となる

やがて184年になると、黄巾こうきんの乱が発生し、後漢の東部は混乱状態に陥ります。

このため、朝廷は陶謙を徐州刺史に任命し、反乱の鎮圧にあたらせました。

陶謙は徐州に赴任すると、すぐに黄巾賊を攻撃し、これを敗走させています。

やはり陶謙は、戦いには強かったのでした。

長安に使者を送って地位を高める

黄巾の乱が鎮圧されると、しばらくして霊帝が崩御します。

そしてその後の政局の混乱の中で、董卓とうたくが台頭し、朝廷の実権を握りました。

その後、董卓は暴政を行って世を混乱させたため、各地の群雄がこぞって兵を挙げ、反董卓の連合軍を形成します。

これを受けて董卓は、洛陽らくようから西の長安に都を移し、諸侯の攻撃から逃れました。

このような状況になると、陶謙は長安の皇帝の元に使者を派遣し、間道を通らせて貢ぎ物を送り届けます。

長安への道は、諸侯が割拠したことで通行が困難になっていましたので、陶謙は相当な労力を、この行動に費やしたものと思われます。

この結果、陶謙は安東将軍、徐州ぼく(刺史より上位の長官の地位)に昇進しました。

さらには溧陽りつよう候の爵位をも得ており、おおいに身分を高めています。

当時の徐州は土地が肥沃で、そのために住民は裕福で、経済力の高い地域でした。

このような背景があったことから、故郷を離れて流浪する者たちが多く集まってくるようになります。

ですので、戦いに強い陶謙が彼らを取りこんで戦力を増していけば、一大勢力を築くことも可能でした。

しかし陶謙は、それができる器の持ち主ではなかったのでした。

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