豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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荒木村重と小寺政職の寝返り

1578年の7月、三木城攻めに参加していた荒木村重は、無断で戦線を離脱し、居城である有岡城に籠城して織田氏からの離脱を宣言します。

有岡城は三木城に近い摂津にあり、これと連携して織田氏に対抗してきました。

信長はこの寝返りに驚き、村重を懐柔しようとしますが、成功しませんでした。

信長が驚いたのは、荒木村重には摂津に37万石という大領を与えており、これまでにかなり優遇していたからです。

この領地は秀吉や、信長の筆頭家臣である柴田勝家と比べても遜色のない規模で、他の軍団長たちと同格の地位にありました。

村重も秀吉と同じく、一代でのし上がった成り上がり者で、信長の引き立てを受けて出世していたのですが、それがどうして急に裏切ったのか、その動機は不明となっています。

一説には、村重の家臣が敵対する石山本願寺に食糧を横流ししていて、それを信長に咎められることを恐れたのだと言われています。

ともあれ、この有岡城経由で三木城に食糧補給がなされたため、織田軍は有岡城も攻め落とさなければ、播磨を平定できない情勢となりました。

村重を翻意させるため、黒田官兵衛が有岡城に出向いて説得しようとしますが、村重に捕らえられてしまい、有岡城の地下牢に監禁されてしまいます。

さらに官兵衛の主君である小寺政職が毛利方に寝返り、摂津と播磨は織田氏からほぼ完全に離脱し、毛利方が優勢となります。

有岡城の攻防

この事態を重く見た信長は、配下の主な軍団に出撃を命じ、滝川一益や明智光秀、そして秀吉ら5万もの大軍を動員しました。

これらの部隊は三木城への監視も続けつつ、有岡城に攻撃をしかけます。

信長は調略も用い、荒木村重の重臣である中川清秀や高山右近といった武将たちを寝返らせ、村重の勢力を削り取っていきました。

高山右近は熱心なキリスト教徒であったため、神父に説得させるという手段を用いています。

こうして下地を整えてから攻撃を開始しますが、有岡城は堅城であり、村重の指揮能力は高く、織田軍は撃退されて大きな損害を出しています。

このために信長は力攻めをやめ、これを厳重に包囲するように命じ、兵糧攻めを開始しました。

織田軍は大軍での包囲戦を長期間維持できるだけの財力があったため、時間がたつにつれて戦況は自然と織田方に有利に傾いていきます。

村重は毛利氏の支援をあてにして挙兵しましたが、北九州にも敵を抱える毛利氏の動きは鈍く、1年も籠城を続けると、やがて物資が乏しくなって窮地に陥ります。

大阪湾の制海権を握る織田の水軍が増強されたこともあって、毛利氏は容易に支援を送れなくなっていました。

こうして追い詰められた村重は、家臣も家族も置き去りにして、尼崎城に逃亡してしまいます。

城主がいなくなったことは織田方の間諜によって察知され、これを調略に長けた滝川一益が利用し、荒木方の武将たちを寝返らせます。

こうして有岡城の堅い守りも意味をなさなくなり、総攻撃を開始した織田軍の手によって、間もなく攻め落とされました。

そして捕縛されていた黒田官兵衛が救出され、しばしの休養の後に秀吉の配下として復帰しています。

荒木村重は安芸(広島県)の毛利氏の元にまで逃走し、やがて尾道で隠居しました。

後に秀吉に仕えましたが、秀吉の悪口を言ったことが露見し、これを恐れて出家するなど、何かと反抗的で、しかもうかつな性格の持ち主であったようです。

信長に謀反を起こしたのも、さして深い考えがあってのことではなかったのかもしれません。

いずれにせよ、軍事的な才能はあっても、大名の地位を保てるほどの器量の持ち主ではなかったのでしょう。

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