豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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秀次の乱行

こうして秀吉が秀頼を溺愛する様子を見せると、やがて秀次が動揺するようになります。

元々が自分の実力ではなく、秀吉の意向によって関白の地位につけてもらった立場であるため、その基盤は脆弱なものでした。

秀次は木下家の出身でしたが、従来は農家でしかなく、本来は関白という人々から尊崇を受けるような立場につける若者ではありません。

秀吉のおかげで目もくらむような出世を遂げましたが、それに気持ちがついていけないのか、秀次は情緒に不安定なところがありました。

その傾向は秀頼が誕生したことで拍車がかかり、辻斬りなどの乱行にふけっているという風評が立つようになります。

そのように秀次が評判を落としていったこともあり、時間が経過するにつれ、秀次を排除して秀頼を後継者にしたい、という願望が秀吉の心を強く占めるようになっていきました。

我が子を豊臣家の当主にしたいと願う母親の淀殿が、そのように働きかけたという説もあります。

秀次を自害させる

ついに1595年の6月になると、秀次に謀反の嫌疑がもちあがり、秀吉は石田三成らを派遣して詰問させます。

秀次は誓紙を差し出して謀反を否定しますが、やがて伏見城に出頭して秀吉に直接申し開きをするようにと迫られます。

秀次は伏見城に赴くものの、秀吉との会見は許されず、そのまま高野山に流罪の処分を受けました。

やがて福島正則らが秀次の元を訪れ、自害するようにとの秀吉からの命令を伝えます。

秀次はこれを受けて切腹し、三条河原でその首が晒し者となりました。

さらには秀次の妻子ら30数名がことごとく処刑され、聚楽第も取り壊されています。

秀次がかつて支配していた近江八幡城をも破却するという徹底ぶりで、秀吉は秀次が存在していた痕跡すらも、地上から全て消し去ろうとしました。

こうして秀吉は自らが仕立て上げた関白・秀次を抹殺し、秀頼を自身の後継者に据えることに成功します。

しかしこの措置が、豊臣政権の寿命を大きく削る結果となりました。

秀次を自害させたことで、豊臣家はその政権を成立させる根拠としていた関白の地位を失ってしまい、以後は二度と得ることができなかったからです。

関白は天皇に代わって政務を見る官職ですので、幼子にこれが与えられることはありません。

そして秀頼が成人したころには既に豊臣家からは実力が失われており、関白に就任できる政治的な環境は失われていました。

結果から見ると、秀頼が生まれたことが、豊臣家にとっては災いになってしまったことになります。

老いた権力者の妄執が、自らの政権を損なってしまったのだとも言えるでしょう。

サン・フェリペ号事件とキリスト教徒の処刑

1596年の10月に土佐にスペイン船が漂着し、そこからひとつの事件が持ち上がります。

この船はサン・フェリペ号といい、メキシコとの交易のために東シナ海を航海していた際に嵐にあって遭難し、土佐沖まで流れ着いて来たのです。

これを聞いた領主の長宗我部元親が船を曳航させ、船員たちを近くの街に拘束します。

この事態は秀吉のところにまで報告が届き、秀吉は奉行のひとり、増田長盛を土佐に派遣します。

そしてそこで船長たちに「ポルトガル人から、スペイン人はフィリピンやメキシコなどを侵略した海賊集団で、日本でも同じことをしようとしていると聞いた。だからお前たちの積荷と財産を没収する」という秀吉の意向を告げます。

これに対して船長が「スペインは広大な領土を持つ大国であり、日本は小さな島国であるに過ぎない」と告げ、暗に「だから私たちをもっと丁重に扱ったほうがいい」と脅しをかけて対応の変更を求めます。

これが秀吉の感情をさらに逆撫でしたようで、この直後に秀吉が厳しい禁教令を出すことにつながりました。

京都や大坂にいた、スペイン系のフランシスコ会の宣教師や修道士と、さらに日本人の信徒20名が捕縛されました。

彼らは長崎に送られ、12月には処刑されています。

こうして秀吉はスペイン人の締め出しを開始し、これが後の徳川幕府の鎖国政策にもつながっていくことになります。

この事件の背景には、スペインが国策として、他国に宣教師を送って住民をキリスト教に改宗させて手懐け、その後で軍隊を送り込んで植民地化する、という政策を行っていたことにあります。

サン・フェリペ号事件がきっかけとなり、秀吉はスペインの行っている対外政策を詳しく知り、これを排除した方が日本のためになると判断したようです。

こうした政策は徳川幕府にも引き継がれ、やがて天草の乱でキリスト教徒たちが壊滅する時まで弾圧が続いていくことになります。

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