豊臣秀吉 放浪者から関白にまで上りつめた男 その道のりのすべて

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領地の分割

引き続き領地の分割が話し合われ、秀吉は明智光秀の領地であった丹波や山城・河内などを自分の領地とし、28万石の加増を受けています。

一方で、近江長浜を柴田勝家に譲るように要求され、これを勝家の養子、勝豊を城主とする条件をつけて承認しています。

勝家の領地は越前(福井県)にあったため、これと隣接する北近江(滋賀県北部)の地を抑えることで、畿内に進出しやすい状況を作り上げたかったのです。

この時点で、勝家は近いうちに秀吉と対決することになると予想していたと思われます。

秀吉は播磨や但馬、因幡などに加え、畿内の中央部と西部を抑えることにより、広大な地域に勢力を築くことに成功しました。

この時点で秀吉は織田家中で最大の領地の持ち主になっています。

柴田勝家との対決

秀吉は清州会議が終わると他の織田氏傘下の大名たちに働きかけ、自勢力への取り込みを図ります。

これに摂津の中川清秀や高山右近、近江の蒲生氏郷らが応じ、秀吉の勢力が増大していきます。

また、秀勝を喪主として京都で信長の大規模な葬儀を行い、自身が信長の後継者となる存在だと世間に印象づけます。

このように、信長の子どもを養子にしていたことが、様々な面で秀吉に利益をもたらすことになりました。

さらに、清州会議では誰にも相手にされていなかった、信長の次男の織田信雄を懐柔します。

三法師の後見人を信雄に任せ、暫定的に織田家の当主を代行させ、その条件をもって味方に付けたのです。

信雄は才覚の乏しい人でしたが、秀吉と敵対する信孝と仲が悪かったことから、この時の秀吉にとっては味方につけやすく、利用価値のある存在でもありました。

一方で柴田勝家は、清州会議で推薦していた信孝と接近し、信長の妹のお市の方と再婚します。

こうして織田家と深く関係を結ぶと、信孝や、伊勢に領地を持つ滝川一益と連携して秀吉に対抗しようとします。

信孝打倒の兵を挙げる

この年の12月になると、雪に道がふさがれて勝家が畿内に進出できない機をとらえ、秀吉は信孝打倒の兵を挙げます。

三法師の後見人は信雄が務めるはずでしたが、信孝は織田家の実権を握るために、三法師を引き渡さなかったのです。

秀吉はこれを咎め、大義名分として北近江や美濃に攻め込みました。

秀吉は5万という大軍を動員し、つい先ごろまで自分の城だった近江長浜城を包囲します。

そして若手の家臣・大谷吉継に命じて交渉させ、城主となっていた柴田勝豊を寝返らせます。

勝豊は勝家の養子で、養父と不仲になっていたため、秀吉が呼びかけると容易に鞍替えをしたのです。

これを見越して、秀吉は勝豊を長浜城主にするようにと条件をつけていました。

こうして秀吉は北近江の拠点を容易に奪還しています。

続いて美濃に侵攻すると、西美濃に勢力を持つ稲葉一鉄を降伏させて傘下に加え、各地の城を落として信孝を孤立させます。

そして三法師の引き渡しと、信孝の母と娘を差し出させることを条件にして和睦しました。

こうしてあっさりと信孝を屈服させ、美濃にも秀吉の勢力が築かれました。

滝川一益の抵抗と勝家の出陣

滝川一益は信長が尾張の一領主の時代から仕えている老臣で、戦術と謀略に長けた優れた武将でした。

一益は1583年の1月ごろから秀吉方の伊勢の城の攻略を開始し、関城や亀山城といった重要拠点を攻め落としています。

秀吉も軍を派遣して一益を攻撃しますが、滝川軍の抵抗は激しく、少数の兵でよく持ちこたえたため、伊勢の戦線は膠着状態に陥ります。

それでも戦いが長引けば秀吉の有利になっていったでしょうが、美濃や伊勢の情勢を知った勝家が、まだ雪の残る道を切り開き、3万の軍を率いて北近江へと進出してきます。

秀吉もこれに対抗するために北近江に出陣し、信長の重臣同士であった両者の対決の時が迫ります。

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