太田城の水攻め
続いて5千の根来衆が篭もる太田城には周囲に堤防を築き、水攻めによって追い詰めました。
しばしの籠城の後、4月中には城内の兵たちが抵抗をあきらめ、首領たちの首が差し出されたことで秀吉は降伏を認めます。
こうして1ヶ月という短期間で紀州征伐は完了しました。
この時に秀吉は、住民たちに対して農具や家財などの保有は認めたものの、武器はすべて没収しており、これが今後行われる刀狩り政策の発端となりました。
この当時は農民であっても自衛のためにある程度の武装をしているのが当たり前でしたが、これが各地で頻繁に武力闘争が行われる原因になっており、秩序を安定させる上で、一般人の武装解除が政策として必要になっていました。
こうして秀吉は信長が達成できなかった紀州征伐に成功し、畿内を完全に制圧しました。
四国征伐
秀吉は同年の6月に、四国を支配する長宗我部元親の征伐を行います。
元親は土佐(高知県)の小領主の出身でしたが、そこから身を起こして一代で四国を制覇した英傑です。
この元親もまた家康に同調して秀吉と敵対しており、このために降伏させる必要があったのです。
秀吉は讃岐(香川県)と伊予(愛媛県)を割譲させることを条件に和睦を試みますが、元親は伊予のみを割譲することを提案してきました。
秀吉はこれを認めず、元親の征伐を決意します。
この時に秀吉は病気にかかっていたため、弟の秀長に総大将を任せています。
こちらも10万という大軍を動員した戦役でしたが、これほどの規模の戦いを任せられる弟がいたことが、秀吉にとっては幸いでした。
また、副将には先の長久手の戦いで失態を演じた甥の秀次が任じられています。
これに対し、元親は4万の軍を動員して抵抗を試みました。
讃岐への攻撃
元親は四国各地と連携がとりやすい阿波(徳島県)の白地城に拠点を起き、羽柴方の侵入が予想される伊予と讃岐での防戦を行います。
讃岐には黒田官兵衛や宇喜多秀家らの軍勢が上陸し、防衛拠点である植田城の攻略を始めます。
しかしこの守りが堅く、攻略に時間がかかるとみるや、官兵衛が元親の本拠である阿波を突くようにと提案します。
讃岐は枝葉に過ぎず、幹である阿波を落とせば元親は降伏するだろうと、官兵衛に見抜かれてしまったのです。
諸将はこれに同意し、讃岐に抑えの兵を残して阿波へと進軍することになります。
一方、伊予には秀吉の要請を受けた毛利氏の軍勢が上陸して攻撃を開始しており、元親は伊予と讃岐、阿波の三方面に戦力を分散させなくてはならなくなり、苦戦を強いられます。
阿波の攻略と元親の降伏
そして阿波に秀長の本隊が上陸すると、元親側の重要な防衛拠点である一宮城と、周辺の支城に攻撃を開始します。
一宮城には9000の長宗我部兵が篭っており、大軍の攻撃にも頑強に抵抗しましたが、秀長軍は兵糧攻めにした上で、坑道を掘って水の供給を断つことで戦意を失わせ、これを降伏させています。
この頃の羽柴軍は城攻めにおいて、水攻めや坑道堀りなど、様々な工事をからめた作戦を用いることで、その陥落を早めていました。
それまで戦乱を長引かせる要因になっていた、堅牢な城塞の無力化に成功したことが、秀吉が天下統一を成し遂げた要因となっています。
周辺の支城も秀次や官兵衛らの手によって順次陥落し、羽柴軍は圧倒的な力の差を長宗我部軍に見せつけます。
これを受けて元親の重臣・谷忠澄が降伏を促すようになり、元親は初めこれに難色を示しますが、やがて力の差を認めて四国の維持をあきらめます。
元親は秀長の降伏勧告を受け入れ、土佐一国の安堵と、秀吉からの命令に応じて3千の軍役を果たすことを条件として、傘下に加わることになりました。
こうして秀吉は新たに讃岐・阿波・伊予の三ヶ国を手に入れ、四国の制覇にも成功します。
この戦役は完了までに2ヶ月もかかっておらず、秀吉の天下統一事業はかなりの速度で進行していました。
こうして秀吉は、またしても信長がやり残していた事業のひとつを完成させました。
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