藤堂高虎 8人の主君に仕え、伊勢32万石の大名にのしあがった「忠義の武将」の生涯について

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藤堂高虎は近江の出身で、足軽から身を起こして各地を渡り歩き、8人もの主君に仕えた武将です。

最終的には徳川家康や秀忠に仕えて信頼され、伊勢の32万石の大名にまでのし上がっています。

初めは自身の立身のために励んでいましたが、やがては公のために献身的に尽くす精神性を身につけ、幕府から重用されるようになっていきます。

この文章では、そんな高虎の生涯について書いてみます。

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【藤堂高虎の肖像画】

近江の農家に生まれる

高虎は近江(滋賀県)の藤堂村で、1556年に生まれました。

かつて藤堂家は藤堂村の小領主だったのですが、没落して一農家の身分にまで落ちぶれていました。

高虎は武勇に優れていたことから、家を出て侍として身を立てることを決意します。

そして北近江の大名・浅井長政に足軽として仕官しました。

足軽は最下級の兵士のことで、身一つで戦闘力を提供する身分です。

高虎は190cmの長身の持ち主で、その恵まれた体格を活かして兵士として活躍します。

姉川の戦いで武功を上げるも、浅井氏は滅亡する

1570年、14才の時に高虎は「姉川の戦い」の戦いに参加しています。

これは浅井長政と朝倉義景の連合軍と、織田信長と徳川家康の連合軍の間で行われた大規模な決戦でした。

この時に高虎は敵の指揮官の首を取る手柄を立て、浅井長政から感状を与えられています。

感状とは家臣の功績を称える書状のことで、これが武士にとっては自身の能力と功績を示す、証明書のような役割を果たしていました。

これによって高虎は出世の糸口をつかんだことになります。

近江の武将たちの元を転々とする

しかし1573年になると、浅井長政は織田信長によって攻め滅ぼされてしまい、主君を失った高虎は浪人をすることになってしまいます。

やがて浅井長政の配下で、信長に寝返っていた阿閉(あつじ)貞征に仕官しますが、長続きせずに退転しています。

阿閉貞征には渡辺了(さとる)という高名な槍の使い手も仕官していたのですが、こちらも退転していることから、どうやら人望に欠けた人物であったようです。

ついで、同じく浅井氏の旧臣である磯野員昌や、信長の甥である織田信澄らにも仕官しますが、主君として頼みにできるほどの人物だとは思えなかったようで、これらの武将たちの元からも立ち去っています。

高虎は織田信澄の元でも大きな軍功をあげているのですが、信澄がそれにふさわしい報奨を与えなかったため、これを見限って勤めを辞めたようです。

こうしてなかなか主君に恵まれなかった高虎は、数年に渡って流浪の生活を送ることになります。

この当時は、秀でた能力を持つ武士が、自分にふさわしい主君を選ぶために各地を渡り歩くのは、特に珍しいことではありませんでした。

最初の主君である浅井長政が滅亡してしまったように、それらの主君たちもいつまで生き残れるかわからないわけで、仕える方も相手の人格や将来性を考慮して選ぶのは当然、という風潮があったのです。

しかし収入が安定しないことから、この時期の高虎は貧窮することも多かったようで、三河(愛知県)で無銭飲食をしてしまい、店主に自ら白状した、という逸話も残っています。

この時は店主に許してもらえ、故郷の近江に戻るための旅費まで用立ててもらいました。

後に大名となった高虎が、三河を訪れた時にこの時の店主に謝礼をするという人情話が語り伝えられています。

【次のページに続く▼】

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