主人の死と出家
こうして高虎はその才能をいかんなく発揮し、主君の秀長と良好な関係を築き、順調に人生を送っていました。
しかし1591年に秀長が51才で病死してしまい、そのような幸福な状況も終わりを迎えます。
その後、秀長の後を継いだ豊臣秀保(ひでやす)に仕えますが、こちらは1595年に、わずか16才で亡くなってしまいます。
相次いで主君が死去したことで、高虎は武将として働く気力がなくなってしまったようで、大名の身分を捨てて出家してしまいました。
かつては主君たちが気に入らず、流転の人生を送っていた高虎でしたが、秀長の一家に仕えることをよほど気に入っていたようです。
高虎は後に「禄(収入)を与えるだけでは家臣は心服しない。もらえるのが当たり前だと思っているからだ。禄を与えた上で、情けをかけて接してこそ、家臣は心から主人に仕えるようになる」と述べています。
おそらく高虎は、秀長からそのことを教えてもらったのでしょう。
秀吉に請われて復帰する
秀吉は高虎の才能を惜しみ、家臣の生駒親正に命じて豊臣家に復帰するようにと説得させます。
高虎はこれに応じて再び武将となり、5万石を加増され、伊予(愛媛県)板島7万石の大名となります。
さらに秀吉直属となっており、2万石を捨てて出家したことでかえって身分が上がるという、不思議な結末を迎えることになりました。
秀吉が弟への高虎の忠誠心を評価した、ということでもあったのでしょう。
慶長の役に参加する
この頃に秀吉は朝鮮半島への遠征を実施していましたが、高虎もこの戦役への参加を命じられます。
ここで高虎は水軍の将に任じられ、李氏朝鮮の水軍と対峙することになります。
この時に朝鮮水軍の名将として知られる李舜臣(りしゅんしん)は、積極的な攻勢に出なかったことを罪に問われて地位を剥奪されており、敵軍の士気は低い状態でした。
李舜臣に代わって将となっていた元均(げんきん)も、消極的な対応に終始していましたが、中央からの命令によってやむなく出撃することになります。
そして本営から出撃して漆川梁という港に停泊しますが、この情報を日本水軍が入手します。
高虎はこれを受け、海上と陸上の双方から朝鮮水軍を襲撃する計画を立てます。
この時には他に、脇坂安治や加藤嘉明(よしあきら)といった武将たちが参戦していました。
加藤嘉明とは作戦を立てる際に意見が食い違ったようで、この時から不仲になってしまい、以後は30年にも渡っていさかいが続くことになります。
ともあれ、1597年の7月に、高虎の立てた作戦が実行されます。
この作戦は成功し、日本水軍は朝鮮水軍の数千の兵を討ち取り、160隻の船を捕獲するという大戦果をあげました。
さらに周辺の海賊船も焼却し、海路の安全を確保します。
この戦いでは敵将4人のうち3人を討ち取るという大勝利に終わり、高虎は海戦をもこなせる軍事能力の高さを示しました。
さらに南原城の攻城戦などにも参加し、これらの軍功によって、帰国後に1万石を加増され、領地は8万石になりました。
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