木村重成との戦い
左軍が長宗我部隊と戦っている一方で、右軍は木村重成隊と交戦を開始していました。
午前5時頃に右軍の先鋒、藤堂良勝が攻撃をしかけますが、兵力差が大きく、藤堂隊は良勝らが戦死するなどして、こちらも大きな損害を受けました。
それでも踏みとどまって戦ううちに、付近にいた友軍の井伊直孝隊が参戦してきます。
これによって戦況は覆り、左右から挟撃される形になった木村重成隊は、奮戦するもののやがて壊滅し、正午ごろには重成自身も戦死しています。
これを聞いた長宗我部盛親は撤退を決意し、藤堂隊が多数の犠牲を出したかいがあって、八尾・若江方面の戦いは徳川方の勝利に終わりました。
この戦いで高虎と井伊直孝の部隊は大きな損害を負い、翌日の天王寺の戦いでは先鋒を務めることができなくなりました。
後にこの時の戦況を聞いた家康から、その献身的な働きを評価され、高虎は感謝されています。
逆にこの時、家康の言いつけを守って戦わなかった松平忠直は、家康から叱責を受けています。
戦場で活躍するには、単に言いつけを守るだけでなく、臨機応変に動ける判断力が必要となるのでしょう。
戦後に加増を受ける
翌日の天王寺の戦いでは、豊臣方の真田信繁らが最後の意地を見せ、家康の本陣を突き崩す働きを見せますが、そこが攻勢の限界で、以後は順次武将が戦死・自害して壊滅しました。
豊臣秀頼は一度も戦場に出ないまま、大坂城で母の淀殿とともに自害しています。
こうしてかつての天下人の家であった豊臣家は滅亡し、徳川家の天下が安定したものとして確立されました。
長宗我部・木村隊の進軍を阻んだ藤堂隊の献身的な武功は高く評価され、新たに伊勢に5万石の加増を受け、その領地は27万石になりました。
この時に藤堂隊は一族の武将を含めて600人もの死者を出しており、高虎は戦没者を供養するために、南禅寺に釈迦三尊像などを造って寄贈しています。
こうした高虎と配下の武将たちの貢献が認められ、翌年の家康の臨終の際には、その枕元に入ることを許されるほどになりました。
家康は「国に一大事があった時には、高虎を一番手として戦わせよ」と命じており、徳川家の軍法では、藤堂家と井伊家を先鋒とすることが定められました。
関ヶ原の戦いの前後から仕え始めた高虎がここまで信頼されたのは、家康に対して誠意を尽くして仕えたからこそでしょう。
先にも述べたとおり、高虎は大名になった頃から漢籍で中国の歴史を学ぶことにも力を入れ、ひとりの武将として天下を安寧に導くにはどう考え、振る舞うべきかと思索を練っていました。
そうして身につけた忠誠と無私の思想を行動で現すことを自らに課し、実践したことで徳川将軍家から大きな信頼を得られたものと思われます。
高虎はそのような思想家としての一面もあり、それが高虎をただの立身出世を目指した、私欲にまみれた一武将で終わらせなかった要因となりました。
秀忠時代の活動
1616年の家康の死後には、2代将軍・秀忠からも厚い信頼を受けました。
その証として1617年に5万石を加増され、とうとうその領地は32万石にまで達し、これが高虎自身の領地としては最大のものとなりました。
1620年に秀忠の娘の和子が、天皇の妃となるために御所に入内しようとすると、反対派の公家たちがそれを妨害してきます。
高虎はこの露払い役を務め、「入内できない場合は私が御所で切腹する」と言って強引に押し通った、という逸話があります。
この頃には60才を超えていましたが、命を惜しまぬ気迫は衰えていなかったようです。
領地の内政にも積極的に取り組み、津の城下町を整備し、周辺地域の農地開墾を行って生産力を高めています。
そして幕府の命令によって会津藩や高松藩、熊本藩など、大藩でありながらも当主の能力が不足していると思われる藩を後見し、家臣を派遣してその政務を監督するなどしています。
これにより、自領とあわせて160万石もの領地の政務を見ることになりました。
高虎は軍事・築城の能力だけでなく、統治能力も非常に優れていたことがうかがえます。
高虎は平和時の君主の心得として「家臣たちの能力を見抜き、適材適所を心がけて十分に働かせることが重要だ」と説いています。
そして「人を疑わないことも大事で、たとえ天下人でも、下の者を心服させられなければ、肝心の時に事を謀れなくなって失敗をするようになってしまう。もしも悪人の言葉を受け入れるようになれば、能力のある善人からの人望を失って、人材が集まらなくなるだろう」と述べています。
こうした心得の実践によって、大領の統治を任されることになったようです。
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