藤堂高虎 8人の主君に仕え、伊勢32万石の大名にのしあがった「忠義の武将」の生涯について

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加藤嘉明と和解する

1627年になると、死去した藩主に子がいなかったために会津藩が改易されることになり、秀忠より会津藩40万石に移封の上、東北地方の監督役を務めてくれないかと打診が来ます。

しかし高虎は72才という高齢であることを理由にこれを断り、かわりに加藤嘉明を推薦します。

これを聞いて秀忠は驚きます。

というのも、加藤嘉明と高虎は朝鮮での戦い以来、30年にも渡って仲が悪く、そのことが世に広く知られていたからです。

そのうえ、加藤嘉明は伊予20万石の領主でしたが、彼が会津藩主になると40万石に立身することになり、32万石の高虎よりも格上の存在になってしまいます。

不仲な相手の出世を支援するのは奇妙な話で、このため秀忠はどうして高虎が加藤嘉明を推薦するのかと問います。

これに対し、高虎は「個人の不仲は私事であって、国事という大事の前には無用のことです。そんなものは捨て去らなければなりません」と答えて秀忠を感心させます。

そして加藤嘉明であれば、東北の要衝の領主もこなせるだろうと、その能力を高く評価していると伝えたことにもなりました。

これを聞いた嘉明は高虎と和解し、以後は「水魚の交わり」と言われるほどに親しく付き合うようになりました。

高虎が抱いていた無私の思想が、ここでも表されたことになります。

その死

このようにして晩年に至るまで幕府のために尽くし、多くの領地の統治にあたりましたが、1630年にはついに病に倒れてしまい、やがて亡くなっています。

死因は不明ですが、老齢であるにも関わらず、普請の際に水に浸かって体を冷やし、それが原因で体を壊していたという記録が残っています。

享年は75才でした。

後を嫡子の高次が継ぎ、以後は子孫たちが32万石の領地を守っています。

高虎の遺骸を家臣たちが拭き清めると、体中が槍や銃弾の傷だらけで、右手の指が二本なく、左足の親指の爪がないといった慢心創痍の状態で、大変に驚いたという逸話が残っています。

高虎という人物

これまで見てきたとおり、高虎は若い頃は仕えるべき主君に出会えず、近江周辺を転々としていました。

そして羽柴秀長と出会うことでようやく安定した環境を得て、その天賦の才を発揮して、軍事・築城・内政と多方面に渡って活躍しています。

おそらくは秀長に感化されて、後に大名として活躍するための下地を蓄えていったんのでしょう。

高虎は出世の役に立つ技能だけでなく、茶の湯や文学、能楽なども嗜んでおり、文化的な教養も幅広く身につけています。

何かにつけ学んで身につける、というのが得意な人だったようで、それが万能になんでもやりこなせる人物として、高虎が成立していった要因になったのだと思われます。

こうした吸収能力の高さは秀吉を思わせるところがあり、もしも尾張に生まれて早くから織田信長に仕えていたならば、高虎はもっと巨大な存在として歴史に名を残していたかもしれません。

人に求められるよりも先に、自ら公儀への忠義の道を見出して実践しており、この点から、江戸時代の先駆的な武家の思想家としても評価されるべき人物かと思われます。