織田信長の「天下布武」 その道のりの全て

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織田信長は尾張(愛知県)の一領主から身を起こし、最終的に天下を統一する直前にまで勢力を拡大しました。

これは運や偶然ではなく、「天下布武」という方針を掲げて戦国時代の終焉を目指した結果です。

信長は単なる領地拡大の野心を持っていただけでなく、世にこれまでの仕組みとは異なる、新しい秩序を打ち立てようとする思想をも抱いており、そこが他の群雄たちとは際立って異なる点でした。

この文章では、そんな信長が歩んだ、天下統一への道のりについて書いてみようと思います。

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【乱世の終結を目指して活躍した織田信長の肖像画】

織田信秀の嫡男として生まれる

信長は1534年に、尾張の実力者である織田信秀の嫡男として誕生しました。

先に生まれた男子もいましたが、信長は正室の土田御前の子でしたので、その後継者になっています。

それゆえ、わずか2才の時に那古屋城を与えられ、その城主となりました。

子どもの頃から武家の常識を外れた行動が多く「尾張の大うつけ」という異名で呼ばれています。

(「うつけ」は「馬鹿」に近い意味合いの言葉です。)

信長は相手の身分にこだわらない性格で、町人の若者たちとも親しく付き合っており、領内で祭りがあるとそこに出かけ、民にまじって遊んでいることが多くありました。

この信長の傾向は年を取っても変わらず、出身階級にこだわらない人材の登用、という形で発展していくことになります。

しかしこの頃には、服装や髪型をだらしくなくしており、歩きながら果物を食べるなど行儀が悪く、周囲の人間には何かと心配をかける存在でした。

家督を受け継ぐ

信長の父・信秀は「尾張の虎」の異名を持つ優れた武将でした。

経済的に豊かな尾張の南西部から勢力を拡大し、隣国の三河(愛知県東部)や美濃(岐阜県)に攻め込んで、いくつかの城を占領するほどの実力を備えていました。

しかし、その晩年には駿河(静岡県)の今川義元に三河の拠点を奪還されており、織田氏は劣勢に立たされています。

義元への対応に苦慮する中、1551年に信秀は急病のため死去し、信長は17才で家督を受け継ぐことになります。

織田信友との抗争

信長が家督を継いだ頃には、尾張内にまだ多数の織田氏一族が割拠していました。

なので、信長はまずそれらの同族たちを打倒して、尾張の統一を目指すことになります。

尾張は従来、足利将軍家の親族である斯波(しば)氏が支配する土地でした。

織田氏はその被官の立場でしかありませんでしたが、斯波氏は1530年頃に駿河の今川氏と争って敗れ、弱体化して実力を失っています。

そのため、家臣であった織田氏が台頭し、清州城を拠点とする織田信友が実権を握るようになっています。

父・信秀はこの信友の家臣でしたが、やがて実力を蓄えて主君を凌駕するほどの存在になりました。

その信秀が死去した後、信長と弟の信勝が遺領を分割相続しています。

信友はこの状況を利用し、自分を脅かす信長の勢力を弱らせることをもくろみ、信勝に味方して兄弟を争わせ、信長を葬ろうとしていました。

【次のページに続く▼】

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