信長と家康の関係
この頃になると、信長と徳川家康の間には大きな実力差がついていました。
信長が濃尾平野および近畿一円を制覇し、北陸・中国地方・甲信にも勢力を伸ばしていたのに対し、家康の領国は三河・遠江・駿河の3カ国に留まっていました。
しかし信長は長年の同盟相手である家康を決して粗略に扱うことはなく、弟同然に遇しています。
家康はかつて信長が包囲網に苦しめられていた時期に、足利義昭から副将軍の地位につけることを条件に寝返りを促されていますが、これを拒否しています。
そして自領の防衛もしなければならない状況下で、信長のために近畿に軍を送り、姉川の戦いでも活躍するなど、信長の覇権の確立に大いに貢献しています。
その後の対武田戦線でも、苦戦しながらも協力してこの強敵の打倒に成功しており、武田討伐の完了は、両者にとって大きな意味を持っていたものと思われます。
このため、両者は互いにその喜びを表現する行動に出ます。
武田討伐の戦後処理を終えた信長は富士山を見物に出向き、そこで家康から盛大な接待を受けました。
倹約家で知られる家康でしたが、この時は街道を整備し、新たに豪華な宿館を設けるなどして信長をもてなします。
中でも船で縄で繋いでその上に柱を敷き、土をかけて橋を築き、大井川を歩いて渡れるようにした船橋は、信長を感激させたと言われています。
この当時は大きな川を歩いて渡れるほどの橋は存在していなかったため、これを可能にする船橋には、特別な価値があったのです。
船橋を作るには多大な費用と労力が必要で、これは家康が信長の接待に、非常に力を入れたことの証でした。
信長はこの返礼のために安土城に家康を招いており、今度は信長が家康を接待することになります。
太政大臣・関白・征夷大将軍への就任要請
武田氏の討伐に成功し、関東の北条氏も信長に服属したことから、朝廷は信長の天下統一がいよいよ完了するとみなすようになりました。
そして信長に太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかの、最高位の官職に就くようにと要請しています。
信長はこの時は官職に就いていませんでしたが、その理由は先にも述べたとおり、官職にともなう儀礼への参加に時間を取られることを避けるためだと思われます。
また、信長は格式や形式を好まない性格でしたので、政治的な利用価値が乏しくなった中、積極的に官位につく気にはなれなかったのでしょう。
しかしこの頃になると、配下の武将たちに地方の討伐を任せておける状況になりましたので、そろそろ官職に復帰して畿内に腰を落ち着け、天下の安寧を確立させて欲しい、というのが朝廷の意向だったようです。
信長がこの時にどのような返事をしたのかは、この後の変事の影響によって、不明なままとなっています。
いずれにしても、遠からず信長はいずれかの地位に就くことを受諾し、織田政権を確立する意向は持っていたでしょう。
この就任要請によって、朝廷からも信長の天下統一はゆるぎないものと見られていたことがわかります。
家康が安土城を訪れる
この年の5月15日に、家康が接待の返礼を受けるために安土城を訪れます。
信長は道中の領主たちに家康を丁寧にもてなすように指令を出しており、かなりの気をつかっていたことがうかがえます。
信長は明智光秀に接待役を命じ、家康に食事を運ぶ際には、自ら膳を運んで来るという好意を見せています。
光秀はこの頃、どこの戦線にも軍役を割り当てられておらず、先の馬揃えの仕切りや、家康の接待役などの比較的軽い役目についていました。
信長と光秀が家康をもてなしているうちに、中国地方の羽柴秀吉から、信長への急報が届きます。
秀吉は毛利方の備中高松城を水攻めにして追い詰めていたのですが、これに対して毛利輝元が4万の大軍を率いて援軍にかけつけて来た、というのがその急報の内容でした。
信長は自ら5万の大軍を率いて備中(岡山県)におもむき、毛利軍に織田軍の勢威を見せつけることを計画します。
そして光秀の家康接待役の任を解き、備中に向かうように指令を出しています。
光秀はこれを受け、領国の丹波に戻って軍備を整えました。
家康はこの後、堺に見物に向かうため、安土城から出発しています。
これが信長と家康の生涯の別れとなりました。
【次のページに続く▼】


