伊賀攻略
翌1581年になると、信長は次男の信雄を総大将とした4万の軍勢を伊賀に派兵し、これを攻略させます。
これ以前の1579年に信雄は、信長に無断で伊賀に攻め込み、あげくに撃退されるという失態を演じていました。
このため、信長からは「勘当する」とまで言われ、強く叱責されています。
信雄は信長の子供とは思えぬほどうかつな人物で、この他にも数多くの失敗をしています。
この二度目の攻撃の際には、滝川一益や丹羽長秀、蒲生氏郷らの有能な諸将が攻撃を担当したため、討伐に成功しています。
それでも忍者の根拠地として知られる伊賀だけに、夜襲によって蒲生氏郷が多くの損害を出したり、丹羽長秀が城の攻略に失敗するなど、苦戦する場面も数多くありました。
しかし伊賀衆はこれをまとめる指導者の存在を欠いていたため、織田方に寝返る者も多く、最終的には勝利を収めています。
この時には伊賀の人口の9万のうち、3万が殺害されたと言われています。
残党も徹底的な追跡を受け、多数が捕縛されて処刑されています。
こうして織田軍は伊賀を制圧し、忍びの者たちは壊滅しました。
信長からすれば、金次第でどちらにでも転び、自分の支配下に入らない伊賀衆は信用できず、いつまでも野放しにしておく気にはなれなかったのでしょう。
また、彼らのような存在は秩序を乱す元になっているとみなしたと思われます。
信長はそういった存在には容赦がない人物でした。
ともあれ、これで信長は畿内の統一を、ほぼ達成したことになります。
京都馬揃えと朝廷との駆け引き
信長は1581年の2月に、明智光秀に命じて馬揃えを開催させました。
これは織田軍団を京都に集結させ、華美な衣装をまとわせてパレードを行い、その武威を知らしめる一大行事となりました。
織田一門の他、丹羽長秀や柴田勝家などが参加しています。
この馬揃えが行われた直後に、朝廷は信長に左大臣への就任を要請しています。
信長はこれに対し、正親町天皇が譲位し、誠仁(さねひと)親王へ譲位した際に受けると返事をします。
この時期に正親町天皇は高齢となっていたため、誠仁親王への譲位を検討していましたが、譲位には莫大な費用がかかるため、信長がその拠出を認めなければ実行できませんでした。
このため、朝廷は最高位である左大臣に信長を任官する引き換えに、正親町天皇の譲位を支援するようにと要請したものと思われます。
信長はいったんは譲位を支援する旨を表明したものの、数日後にはこれを翻しており、左大臣への就任も延期されることになりました。
この時の信長の意図は不明ですが、まだ官位について京都周辺に腰を据えるのは早いと判断していたのかもしれません。
信長は京都に引き続き、本拠である安土城でも公家衆を交えて馬揃えを行っています。
朝廷の高位の公家たちを安土城に招くことにより、織田政権の威光を全国に見せつけることにもなりました。
安土城には正親町天皇の行幸を迎えるための施設も建設しており、官位就任を引き伸ばしてはいたものの、朝廷との関係が悪化していたわけではありません。
朝廷はかつての足利義昭とは違い、自ら領土や武力を持つことを望む機関ではなかったので、信長にとって利用価値が大きくこそあれ、敵対する理由がなかった、とも言えます。
武田勝頼を追い詰める
長篠の合戦後、東海や中部地方での戦線は、織田・徳川軍が優勢になっていました。
それぞれに武田軍に奪われていた美濃や遠江の諸城を奪還し、勝頼を守勢に回らせています。
勝頼はこれに対し、人質にとっていた信長の五男を返還するなどして和睦を模索していましたが、信長は武田氏を討伐すると決めていたようで、応じることはありませんでした。
そして遠江の要衝である高天神城を家康が包囲すると、信長は降伏を許さずに落城させるようにと要請します。
勝頼はこの頃、関東の北条氏とも対立しており、織田・徳川・北条の三勢力と戦い続けたため、戦費にも事欠く有様になっていました。
このため、高天神城が危機に陥っても救援することができず、見殺しにしてしまいます。
やがて力尽きた高天神城は落城し、勝頼の苦境は世に広く知られることになりました。
これによって武田氏の勢力の瓦解が始まります。
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