木曽義昌の寝返り
勝頼は甲斐の防備を固めるため、新たに新府城という城塞を建築しようとしていました。
このため家臣たちに多額の負担を要請したのですが、これが大きな反発を招きます。
そして1582年には信玄の娘婿で、一門衆の木曽義昌が織田方に寝返るに至り、それまで情勢の推移を見守っていた信長は、嫡男の信忠の軍勢を中心とした、武田討伐軍の派兵を決定します。
勝頼の父・信玄は「人は石垣、人は城」という言葉を残しており、家臣団の和によって領国の安全を保っていましたが、勝頼は城塞に頼ろうとして、かえって家臣団を離反させることになってしまいました。
ここに両者の器量の違いを見ることができるでしょう。
織田軍は2月2日に西から武田領に侵入し、同時に南からは家康が、東からは北条氏政が攻撃を開始します。
この時の武田討伐軍の総勢は、10万にも達しました。
対する武田軍の総兵力は3万程度でしたが、実際に討伐軍と戦った部隊は、ごくわずかにとどまりました。
武田氏の崩壊
織田軍が信濃に入ると、武田方の諸将はほとんど抵抗をせずに降伏し、連鎖的に戦線が崩壊していきます。
唯一、信濃の高遠城を守る勝頼の弟・仁科信盛だけは頑強に抵抗しますが、信忠軍の猛攻を受けて数日で攻め落とされています。
駿河では武田氏一族である穴山信君が家康に寝返り、徳川軍を先導して甲斐に侵入します。
こうして裏切りや降伏が相次ぎ、武田軍は組織的な抵抗ができぬまま、自壊するようにして衰弱していきます。
これを受け、勝頼は新築した新府城に放火し、親族の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、入城を断られて野をさまようことになってしまいます。
家臣たちの反発を招いてまでして建築した城は、何の役にも立たなかったことになります。
そして勝頼は、武田氏ゆかりの天目山を目指して移動します。
勝頼の最期
信忠は猛烈な勢いで進軍し、3月8日には甲斐を占拠します。
そして3月11日には滝川一益が天目山を包囲し、勝頼を追い詰めました。
勝頼は家臣たちが時間をかせぐ間に、子の信勝と共に自害しています。
こうして長く甲斐の国主として君臨し、一時は信長を苦しめた武田氏は滅亡しました。
信長は戦闘が終わった3月13日に武田領に入り、勝頼らの首実検をしています。
そしてわずか一ヶ月という短期間で武田氏を滅ぼした信忠を褒めたたえました。
武田軍は戦国最強の軍団とみなされていましたので、信忠がこれを打倒したことで、信長の後継者にふさわしい武威の持ち主であると、天下に披露することにもなりました。
信長は論功行賞を行い、駿河を家康に与え、甲斐を河尻秀隆に、信濃の一部と上野を滝川一益に与えました。
一益は関東の統治者にも任じられ、以後は東国の攻略と支配を推進していくことになります。
一益はこの時、信長が所有する高名な茶器と、茶会を開く権利を求めましたが、信長はこれを認めませんでした。
かわりに、老齢で都から遠い地におもむく一益のために、自身の所有する名馬を贈っています。
こうして武田氏は滅亡し、甲信地方も信長の手に落ちました。
そして北陸で上杉氏を、中国地方では毛利氏を追い詰めており、信長の天下統一はもはや目前に迫っていました。
茶の湯政道
信長が行っていた独自の政策に、茶の湯政道というものがあります。
茶会は上級の武士や公家たちの社交の場であり、そこで用いられる茶器には、城ひとつに匹敵すると言われるほどの高値がつくこともありました。
信長は茶会を開く権利を制限し、ごく一部の家臣にだけ、その権利を与える方針を取っています。
それを得ることは、武将としてひとかどの地位についたことの証明になりました。
このため滝川一益のように、領地よりも茶器と茶会を開く権利の方を求める者すら現れています。
このような方針を取ることで、家臣たちに与える領地を減らし、それを節約するという効果も生み出していました。
信長は芸術を好んでおり、瀬戸物のような焼き物の製造を奨励して、専売制を取ると言った経済活動も行っています。
それを政治的にも活用し、家臣の統制にも用いていたのです。
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