岐阜城と天下布武
信長は稲葉山に居城を移すと、やがて岐阜城と改名します。
これは古代中国を統一した周王朝の発祥の地、「岐山」にあやかってつけた名前で、信長が戦乱の世を鎮める意識を持っていたことが示されています。
また「天下布武」という朱印を用いるようにもなっています。
尾張と美濃を合わせ、100万石にも達する国力を手に入れたことから、天下統一の志を明らかにするようになりました。
美濃を制したことから、朝廷からもその存在が注目されるようになり、正親町天皇は信長を「天下無双の名将」と褒め称え、御所への援助を要請しています。
また、将軍家の足利義昭も信長に接触するようになっており、中央政界へ進出するための環境が整っていきます。
信長自身にも、上洛して当時の日本の中心地である近畿を制する野心がありましたが、一方では信長がそうすることで、混乱が続く情勢を鎮めて欲しいという要望もまた、存在していたのです。
100年にも渡って続く戦国乱世に嫌気がさしていた人々も多く、信長はそういった人々から寄せられる期待に応える立場にもありました。
信長は従来、秩序だった世界を望む傾向にあり、こうした要望に応えるのにうってつけの人物でした。
足利義昭との関わり
この頃の京都は三好三人衆と呼ばれる、三好氏の有力者たちが牛耳っています。
三好長逸・三好政康・岩成友通の三人を指します。
彼らは13代将軍である足利義輝を白昼堂々、襲撃して殺害し、その従弟の義栄(よしひで)を傀儡の将軍にすえ、権勢を振るっていました。
義昭は義輝の弟で、義輝の死後に暗殺されそうになりましたが、家臣たちに助けられて奈良から脱出しています。
そして南近江の六角氏や越前(福井県)の朝倉氏を頼り、京都に戻る機会をうかがっていました。
しかし彼らには京都への上洛を果たせるだけの実力や意欲が欠けており、いつまでも実際に動き出すことはありませんでした。
そこで義昭は朝倉氏を頼ることを諦め、新興勢力である信長に目を付け、接触してきます。
信長からすれば、義昭を推戴することで、京都へ上洛する大義名分が得られる好機となりました。
この時に信長と実際に交渉にあたったのが、義昭に仕えていた明智光秀でした。
明智光秀を家臣にし、足利義昭を迎え入れる
明智光秀は美濃出身の侍で、信長の正室・濃姫の血縁者であったと言われています。
父親の名前が不明であるなど、出自に怪しいところもあるのですが、妻の血縁者と知った信長の興味を引き、家臣として召し抱えられています。
鉄砲の扱いに長けており、和歌などの教養も備えていたことから、戦闘指揮官として、また京都の公家との交際において役立つ人材だとみなしたようです。
引き続き義昭の家臣でもあり続け、光秀は両者の間を連絡する立場にも立たされました。
光秀や、その上司の細川藤孝を通じた交渉の結果、美濃に義昭を迎えて京都への上洛を目指すことが、織田氏の方針として決定します。
武田信玄との外交によって安全を確保する
信長が美濃攻略に取り組んでいた時期に、信濃を制した武田信玄もまた、隣国の美濃に向かって進軍してきていました。
信長は東美濃を押さえた頃から信玄との同盟を模索し、信玄の四男の勝頼と、養女の遠山殿との婚姻の話をまとめています。
この遠山殿が死去した後には、嫡男の信忠と、信玄の娘・松姫との婚約をまとめるなどして、東からの脅威を排除するべく働きかけていました。
信玄もこの頃はまだ南の駿河への侵攻に重点を置いていたため、美濃への侵攻はとりやめ、信長との友好関係を保っています。
信玄は自己の利益のためであれば同盟の破棄を厭わない人物でしたので、必ずしも安全だとは言えない状態でした。
しかし、これでひとまずは武田・徳川という東に国境を接する勢力と同盟関係になったため、西の近畿に向かって進軍しやすい情勢を作り出せました。
徳川家康との関係強化
清洲での同盟以来、友好関係を保っていた松平元康は、この頃には三河を統一し、徳川家康に改名しています。
これは今川氏との関係を断ち切り、三河守に就任するための措置でした。
信長は1567年に家康の長男の信康と、娘のお徳との婚姻も成立させ、織田氏と徳川氏の関係をさらに強固なものにしています。
こうして上洛への準備を整えた信長は、いよいよ京都に乗り込むことになります。
このあたりの一連の流れを見ると、信長はかなりの外交巧者であったことがうかがえます。
信長は自分から同盟を破棄したことはなく、裏切られることはあっても、裏切ることの少ない人物でもありました。
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