信玄の死と足利幕府の滅亡
信玄は1572年から翌年にかけて、三河で越冬しましたが、三方ヶ原の戦いの勝利後は、その動きが鈍くなっていました。
これは信玄の病にかかり、それが重くなったためで、ついに4月12日には死去してしまいます。
信玄は「明日は京都の瀬田に旗を立てよ」と家臣に遺言し、その無念を表現しています。
これを受けて武田軍は甲斐に撤退し、信長と家康は東海方面における重圧から解放されました。
信玄の死を知らなかったようで、義昭はこの年の7月に再度挙兵し、京都の槇島城に籠城します。
信長はこれを受けて7万という大軍で槙島城に攻め込み、ついに義昭を京都から追放するに至りました。
7万というと、織田軍を総動員したほどの数になりますが、こうした実力を京都の近くで見せつけることで、義昭追放後の政治情勢の安定を図る意図があったのでしょう。
義昭は将軍位についたままでしたが、首都である京都から現役の将軍が追放され、全ての政治的な権限を失ったことから、この時をもって足利幕府が滅亡したと見るのが一般的です。
こうして信長は足利幕府のくびきから逃れることができましたが、同時に将軍家の権威の後ろ盾を失ったことにもなります。
そのため、これからは自身の力のみをもって天下を束ねていく必要に迫られました。
ちなみに、義昭はこれ以前に改元をめぐって朝廷ともめごとを起こして関係を悪化させており、義昭の追放が朝廷からの非難を招くことはありませんでした。
この時も信長は、世の人々の反応を計算に入れた上で義昭の追放を実行に移しています。
このあたり、信長は政治家として一流の感覚の持ち主であったことがうかがえます。
包囲網を打ち破る
信長は義昭を追放すると、次々と敵対者たちを葬っていきます。
義昭追放の直後、8月2日には京都の淀城を攻め落とし、三好三人衆のひとり、岩成友通を討ち取ります。
そして8月8日には近江に攻め込み、浅井長政の家臣で山本山城主、阿辻(あつじ)貞行を降伏させ、小谷城を完全に孤立させます。
これを受けて朝倉義景が越前から2万の軍を率いて自ら救援に訪れます。
しかしこの時の朝倉軍は4年に渡って信長と戦い続けたことで疲弊しており、重臣の中には従軍を拒否するものが現れるほどに、戦意が低い状態でした。
戦いが持続するにつれて、織田氏との財力や持久力の差がはっきりと現れて来たのだと言えます。
これを見抜いていた信長は、朝倉軍は戦わずして撤退するだろうと判断します。
そして諸将たちに、朝倉軍が撤退を始めたらこれを見逃さず、直ちに追撃をかけるようにと通達を出します。
信長の読み通りに朝倉軍は夜陰にまぎれて撤退を始め、信長は自ら本隊を率いて猛追を開始します。
そして刀根坂で踏みとどまろうとした朝倉軍と激戦になり、織田軍は3000もの敵兵を討ち取るほどの大勝をあげました。
この時に一門衆の朝倉道景や重臣の山崎吉家など、朝倉軍の中核をなしていた武将たちが戦死しています。
そして美濃陥落後に浪人衆として信長に抵抗を続けていた斎藤龍興も、この戦いで討ち取られています。
朝倉氏を滅亡させる
信長は引き続き朝倉氏の本拠である一乗谷まで追撃を続け、これを焼き払って壊滅させます。
そして朝倉義景を自刃に追い込み、朝倉氏を滅亡させました。
信長は義景の子どもや愛妾などの近親者たちを捕らえ、丹羽長秀に命じて護送中に処刑させています。
これまでの信長は、打ち破った大名を追放ですませるなど、比較的穏健な措置をとっていました。
しかし斎藤龍興や六角義賢のように、生かしておくと彼らからその後も長く抵抗を受け続ける、という現実に遭遇しました。
そのことが影響してか、朝倉氏に対しては徹底して殲滅する措置を取っています。
【次のページに続く▼】

