竹中半兵衛による稲葉山城の奪取
信長が浅井氏と同盟を結んだその年に、美濃では斉藤龍興の居城である稲葉山城が、家臣の竹中半兵衛に奪われるという事件が起きます。
これは半兵衛が龍興の寵臣に侮辱を受けたことで復讐を図り、政務に熱心でない龍興を諌める目的もあって実行されたと言われています。
半兵衛は奇策を用いてわずか十数名で稲葉山城から龍興を追い出し、舅の安藤守就に兵を借りてこれを占拠しました。
謀反が目的ではなかったので、やがて半兵衛は城を龍興に返還して退去しますが、居城を家臣に奪われた失態により、龍興の求心力はさらに低下していきます。
信長はこの機を活かし、東美濃の攻略にとりかかります。
なお、半兵衛はこのあとしばらく自分の領地に篭った状態になりますが、後に木下秀吉がこれを熱心に勧誘したのを受け、織田氏に帰属しています。
東美濃を支配下に置く
信長は1565年ごろから、積極的に東美濃の国人衆の調略に取りかかっており、これを家臣の丹羽長秀に実行させていました。
東美濃では加治田衆という一族が勢力をもっていましたが、これを服属させることに成功します。
信長はさらに、この年に拠点を清州城から北の小牧山城に移し、美濃方面へ出兵しやすい状況を作っています。
そして木下秀吉に鵜沼城を、森可成に鳥峰城を攻略させるなどして、着実に支配領域を拡大していきます。
この頃になると配下の武将たちに軍を預け、各地の攻略に当たらせるようになっていたことがうかがえます。
さらに信長は勇将・岸信周(のぶちか)が守る堂洞(どうほら)城を攻め滅ぼし、大きな損害を出しながらも、東美濃の支配権を確立しました。
この時の岸信周の抵抗はすさまじく、その妻も長刀を振るって勇戦し、織田軍は18度にも渡って攻撃を跳ね返されるほどに苦戦しました。
しかし織田軍の粘り強い攻撃の前についに力尽き、信周夫妻は刺し違えて最期を迎えています。
これに対し、斎藤龍興は軍勢を率いて岸信周への救援に赴いたのですが、行軍速度が鈍く、落城までに間に合いませんでした。
しかも城攻めで疲弊している織田軍をろくに攻撃せず、無傷での撤退を許してしまっています。
このあたりから、龍興には勇敢さが欠けており、信長に対して及び腰で対応していたことがうかがえます。
岸信周の奮闘を無駄にしてしまったことからも、家臣からの支持はさらに落ちていったことでしょう。
こうして龍興は美濃の半分を失い、残る領地は西美濃だけになりました。
龍興はこの頃、甲斐と信濃(長野県)に領地を持つ武田信玄と同盟を結んでいましたが、東美濃を失ったことで連絡を絶たれ、孤立無援の状況に陥ります。
西美濃三人衆が服属し、ついに美濃を制する
龍興の手元に残った西美濃の地ですが、このあたりは「西美濃三人衆」という武将たちが支配していました。
先に竹中半兵衛の稲葉山城の奪取に加担した安藤守就、武勇に秀でた稲葉一鉄、そして氏家直元の三人を指します。
彼らは東美濃が信長の手に落ちたのを見て、ついに龍興を見限り、信長への臣従を申し入れます。
龍興は政務を省みずに遊んでいることが多く、これを諌めたものの聞き入れられず、ついに見放した、という話もあります。
こうして稲葉山の周辺以外はすべて信長のものとなり、1567年には龍興にとどめを刺すべく出陣します。
そして道三が築いた堅城・稲葉山城を攻め落とし、龍興を伊勢長島に追放しました。
信長は7年の歳月を費やしてついに美濃を我が物とし、尾張・美濃の二ヶ国を治める大大名の地位に上りました。
石高で言えば、その領地は100万石にも達したことになります。
この時の信長は33才で、家督を継いでからは16年の歳月が過ぎていました。
信長の戦国大名としての活動期間の半分は、尾張と美濃の統一に費やされ、この時期に培った経験と実力が基盤となり、その飛躍につながっていきます。
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