北条早雲は伊豆や相模(神奈川県)に独立した勢力を築いた、史上初の戦国大名です。
元々は室町幕府に仕える役人でしたが、駿河の守護大名・今川氏の後継者争いに介入し、功績を立てて一城を与えられました。
以後は中央に戻ることなく、甥の今川氏親を補佐しつつ、伊豆や相模に侵攻し、独自の勢力圏を構築していきます。
そして領民の生活を重視する新しい統治体制を構築し、武家政治のあり方に大きな影響を及ぼしました。
この文章では、早雲はどうして最初の戦国大名になったのか、について書いてみます。
【北条早雲の肖像画】
伊勢氏の一族に生まれる
早雲の生年については2説あり、1432年か、もしくは1456年の生まれだとされています。
室町幕府で代々、政所(まんどころ)の執事を務めていた伊勢氏の出身で、伊勢盛時というのが最初の名前です。
政所は、土地の所有権をめぐる訴訟を扱う役所で、地権者の連合政権である室町幕府にとっては、秩序を維持する上で重要な存在でした。
早雲は分家の生まれで、備中(岡山県)に300貫という、小規模の領地を持つ家系に属しています。
父・盛定は8代将軍・足利義政の申次衆(もうしつぎしゅう)を務めており、将軍家に側仕えする家柄であったと言えます。
伊勢氏について
伊勢氏は守護大名に任じられる家柄ではなく、領地の規模や軍事力については、さほどの実力を備えていませんでした。
しかし政所の執事としての地位を長年保っており、独自の勢力を築いています。
いずれ将軍になる者は、幼い頃に伊勢氏の屋敷に預けられ、そこで礼儀作法や、将軍になるために必要な教育を受ける、という習慣がありました。
このため、成人した足利氏の一族が将軍になると、伊勢氏の者たちが側近として取り立てられることになったのです。
伊勢氏は政所執事である他に、武士たちに礼儀作法を指南できる資格を備えており、室町幕府が秩序を維持する上で、一定の役割を果たしていた一族なのだと言えます。
また、身分の高い武士が用いる高級品の鞍づくりも家業にしており、そちらで副収入を稼ぐなど、職人としての側面も持っていました。
早雲は若い頃にこの鞍づくりを担当していたようで、後に嫡子の氏綱に、その技術を伝授しています。
応仁の乱
こうした一族の出身であったため、早雲もまた世が平穏であれば、将軍の側近として務めつつ、鞍づくりに励む一生を過ごしたことでしょう。
しかし彼が活動していたのは、応仁の乱という大乱が発生し、室町幕府の統制力が著しく衰えていく時期にあたっていました。
応仁の乱は、9代将軍の地位をめぐり、8代将軍・義政の弟である義視(よしみ)と、長男の義尚(よしひさ)が争ったことから発生しています。
これに有力な守護大名である細川勝元と、山名宗全が介入し、双方が10万以上の軍勢を集め、長く抗争を続けました。
守護大名たちの一族がそれぞれ東軍と西軍に別れ、十数年にも渡って争いを続けた結果、京都市街は焼け野原となり、争奪戦の対象であった、将軍家の権威そのものが失墜してしまいました。
早雲はこのような時代に生まれ落ち、独立の気性と乱世に適した才覚を備えていたことから、従来の伊勢氏の一族とは、異なる道を歩んでいくことになります。
今川氏の家督争い
早雲の存在が歴史上にはっきりと現れるのは、1476年に発生した、駿河(静岡県)守護・今川氏の家督争いからです。
この時の今川氏の当主は義忠といい、遠江(静岡県西部)の支配権をめぐり、守護の斯波義廉(よしかど)と争っていました。
義忠は遠江での戦いの際に、斯波氏の家臣の襲撃を受けて戦死してしまい、後にはまだ5才の幼い嫡男・龍王丸(たつおうまる)が残されることになります。
この時に、今川氏の内部は龍王丸を擁立する勢力と、義忠の従兄弟で、既に成人している小鹿範満(おしか のりみつ)を擁立する勢力に二分され、抗争が発生するようになりました。
これに堀越公方の足利政知(まさとも)や、扇谷(おうぎがやつ)上杉家といった東海・関東の有力者たちが介入し、小鹿範満を支援したため、龍王丸派は不利な状況に立たされます。
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