早雲の志
これに対し、戦国大名は領地を直接支配し、国人衆や地侍、そして住民たちとも密接な関わりを持った存在でした。
早雲は住民たちの生活の様子にも気を配り、税の搾取を防ぎ、武士は民を守る存在であるべきだと、家臣たちに教えました。
そして飢饉の際には減税を施し、時には借金を棒引きにする徳政令を出すこともあるなど、公正な民政を実施しています。
戦国大名がみなそのように徳治を行ったわけではありませんが、少なくとも早雲の支配のあり方はそうでした。
守護大名とは違った、よりよき統治を行う、というのが早雲が自らに課していたことで、だからこそ早雲は時代の変革者として、後世に名を残すことになったのだと言えます。
どうして早雲がそのような目標を抱いたのかははっきりとしませんが、この時代は応仁の乱を初めとした内乱が何度も発生し、民の苦しみにもかまわず、支配者階級の武士たちは重税を搾り取り、利己的な権力争いに耽っていました。
そのような権力者たちの堕落したありさまを見て義憤を感じ、こんな世の中は自分の手で変えてやろうと、変革への志を抱いたのかもしれません。
早雲は将軍の側近として中央政界に関与していましたので、その腐敗ぶりを間近で見る機会は、頻繁にあったでしょう。
また、早雲は京都にいた時代に禅寺に通っていますが、その際に漢籍にも触れ、民の存在を重視して変革を肯定する孟子の思想を知り、その影響を受けた可能性もあるのではないかと、想像することもできます。
山内上杉家との抗争
早雲は関東への進出を開始して以来、扇谷上杉家と協力することで、その地歩を固めていきました。
扇谷上杉家は武蔵の河越城を拠点としていましたが、ここが敵対する山内上杉家からの攻撃を受けるようになります。
山内上杉家は上野(こうずけ。群馬県)を拠点とし、関東管領職をほぼ独占していた家柄で、扇谷上杉家の本家にあたります。
勃興してきた扇谷上杉家と数十年にわたって抗争を続け、関東に混乱を招いていました。
この山内上杉家の当主は上杉顕定(あきさだ)でしたが、その弟の上杉房能(ふさよし)は越後(新潟県)の守護であり、兄のために、越後の精強な兵を援軍として差し向けます。
この援軍を受け、上杉顕定は戦力を増強して河越城に攻め込みました。
立河原の戦いで大勝する
これに対抗するため、扇谷上杉家の当主・上杉朝良(ともよし)は、早雲に援軍を要請しました。
早雲はこれを受け入れ、今川氏親とともに武蔵に向かい、上杉顕定と対戦します。
早雲と氏親は多摩川を渡って立河原に上陸し、ここで会敵した上杉顕定と激しく戦います。
この時、早雲は巧みな采配によって、敵兵2000を討ち取る大勝利を上げました。
こうして武蔵の情勢は、早雲と扇谷上杉家に有利になるかと思われましたが、扇谷上杉家の勢力はひどく衰退しており、この勝利をもってしても、劣勢を覆すことはできませんでした。
扇谷上杉家が降伏する
上杉顕定は大敗した後、越後守護代の長尾能景(よしかげ。上杉謙信の祖父)に励まされて再起し、上杉朝良への攻撃を再開しました。
この時には早雲と今川氏親は自分の領地に引き上げており、その隙をつかれた形になります。
この攻勢によって上杉朝良と早雲の領地が分断され、連携して行動することができなくなりました。
そして1505年には再び河越城が攻撃を受け、兵力が不足して防戦を行えなくなった朝良は、上杉顕定に降伏してしまいました。
この結果、早雲は山内・扇谷上杉家の両家と対立する事態となり、関東への侵攻は困難を来すことになります。
【次のページに続く▼】