堀越公方
こうして早雲は駿河に腰を据えますが、数年が過ぎると、隣国の伊豆に討ち入ることになります。
この地を当時支配していたのは、8代将軍・義政の異母兄・足利政知でした。
1454年に、関東を支配する鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が幕府に逆らったため、義政は新たな鎌倉公方として、政知を関東に送り出します。
しかし成氏は下総(茨城県)の古河城を拠点として頑強に抵抗を続け、古河公方として勢力を維持したため、政知は鎌倉に入ることができませんでした。
やむなく手前の伊豆に留まり、堀越に御所を築いて滞留したことから、堀越公方と呼ばれるようになります。
やがて成氏は幕府と和解し、正式に関東の支配者としての地位を取り戻したため、政知の存在は不要なものとなってしまい、伊豆一国の支配者として留まり続けることになりました。
将軍の一族が支配者でしたので、そのままであれば、早雲が伊豆に介入する余地はなかったのですが、政知の死後に発生した後継者争いによって、状況が大きく変化していくことになります。
茶々丸が強引に家督を奪う
政知には三人の子どもがいて、そのうちの潤童子を後継者にしようとしていました。
しかし政知が1491年に没すると、茶々丸という潤童子の異母兄が、潤童子とその母の円満院を襲撃して殺害し、強引な手段で伊豆の支配権を手に入れます。
政知には他に清晃(せいこう)という子どもがおり、早くから京に送られ、将軍に擁立しようと画策されていました。
そして1493年になると、管領の細川政元に擁立され、足利義澄(よしずみ)と名のって、11代将軍の地位に就くことになります。
この義澄は殺害された円満院の子であり、潤童子の兄です。
こうした経緯があったため、義澄は将軍の地位に就くと、母と弟を殺害して伊豆を奪った、異母弟の茶々丸を成敗することを考えました。
そして伊豆の近くに領地を持ち、今川氏への強い影響力を備え、中央政界ともつながりのあった早雲に、これを命じたとされています。
これはあるいは、早雲の側から、伊豆へ侵攻する大義名分を得るべく、義澄に敵討ちを勧めたのかもしれません。
というのも、早雲は前もって、伊豆に攻め込む準備をしていたらしき形跡があるからです。
伊豆討ち入り
こうして伊豆に討ち入る正当な理由を得た早雲は、1493年に今川氏の援軍と合同して堀越御所を襲撃し、伊豆の攻略を開始しています。
早雲が伊豆に侵入するや、国人衆の鈴木繁宗らがすぐに早雲の味方となって、兵を率いて駆けつけており、ずいぶんと前から勧誘工作を行っていたものと思われます。
このため、早雲にとっては、上から命じられての侵攻ではなく、主体的に伊豆を奪い取ることをもくろんでいたのではないか、と推測することができます。
早雲の攻撃を受けた茶々丸は御所から逃亡し、伊豆の豪族や、甲斐の武田氏の庇護を受け、5年に渡って抵抗を続けました。
早雲は東海地方では新参者であり、今川氏の後ろ盾があったとは言え、そうやすやすと伊豆全域を支配下に収めることはできませんでした。
伊豆は山がちな地形であり、このために攻略するのは簡単ではなかった、という事情もありました。
ともあれ、この早雲の伊豆討ち入りをもって、東国では戦国時代が始まったとされています。
出家して早雲庵宗瑞を名のる
伊豆に討ち入りをした前後の時期に、出家をして盛時から「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」と名のりを変え、後世に知られる「早雲」の名が誕生しています。
この出家の理由は明確になっていないのですが、この時をもって正式に幕府の奉公衆を辞任し、東海・関東に根を下ろす決意を表明したのではないか、と考えることができます。
早雲という号の意味が、「早暁に生まれた雲」であるとみなすと、時代の変化にいち早く対応し、新しい勢力を築く意志があることを示したのかもしれません。
なお、早雲の代に北条の姓は用いたことがなく、伊勢宗瑞が正しい姓名だということになります。
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