三浦義同を倒し、相模を平定する
早雲は敵が作り出してくれた好機を見逃さず、先に痛手を負わされた三浦義同を討伐すべく、1512年に出兵しました。
そしてまず、相模中央部にある岡崎城を攻略します。
さらに、三浦半島の付け根にある住吉城も攻略し、1513年には、三浦義同を半島の先端にある三崎城へと追い込みました。
この城は守りが堅く、3年にわたって攻城戦が繰り広げられます。
その間に幾度も、上杉朝良は三浦氏救援の軍勢を差し向けますが、早雲はこれをことごとく撃退しており、1516年には、ついに三崎城を落城させることができました。
この時に早雲は、三浦一族を根切り(皆殺し)にする、厳しい措置を取っています。
三浦一族の血によって海が黒く染まり、これが油の壺の様子に似ていたことから、油壺の地名が付いた、という伝承があります。
三浦氏を完全に滅ぼした理由
三浦一族は源頼朝が挙兵した頃から従っていた名門の武家で、500年近くにわたって三浦半島周辺を支配していました。
この歴史ある一族を、新興勢力である早雲が滅ぼしたことになります。
早雲は、相模の支配を確立するためには、古い名家は完全に滅ぼしてしまわなければならない、と冷徹に判断したのでしょう。
仮に三浦一族を生かしておけば、地元の者と結びついて再起し、反抗を続けるかもしれず、かといって降伏をさせても、新参者である早雲に、心から服属する可能性は乏しかったのです。
この戦いは、関東における新旧勢力の交代を示す、象徴的な出来事であったと言えます。
隠居と最後の政策
早雲は伊豆・相模2ヶ国の支配体制を確立すると、1518年に、嫡男の氏綱に家督を譲りました。
そしてこの年に早雲は、虎の印判状を用いるようになっています。
印判状とは、大名の印判を押した書状のことで、これを用いていない税の徴収は違法であると定め、代官による違法な徴税を防ぐための措置を取りました。
また、この印判には「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」という文字が刻まれていました。
これは「領民の禄(財産)と寿(生命)が、穏やかに保たれるように守る」という意味で、北条氏の施政の根幹を示す言葉であったと言えます。
早雲は「下のものを憐れむべし」と「早雲寺殿廿一箇条(にじゅういっかじょう)」という家訓書に書き残していますが、激しく戦いを繰り広げ、多くの血を流して領地を拡大する一方で、民の生活に気を配りながら統治することを、貫いた人物でもあります。
そのあたりを合わせて見るに、自らの理想とする統治の形を実践し、それを押し広げるべく行動した変革者だったとみるのが、妥当であるように思われます。
その死
早雲は氏綱に家督を譲った翌年の、1519年に死去しています。
享年は64か、もしくは88だとされています。
後を継いだ氏綱は、北条氏を名のってさらに勢力を拡大し、孫の氏康や、ひ孫の氏政の代に至るまで、関東で勢力を拡大し続けました。
北条氏はかつて源頼朝に協力し、鎌倉幕府を成立させた一族であり、その名にあやかることが、関東への進出の際に寄与するだろうと、氏綱は考えたのだと思われます。
早雲自身は北条氏を名のったことはありませんでしたが、この新たな北条氏の始祖となったことから、後世に北条早雲の名で知られるようになりました。
早雲の存在意義
こうして見てきた通り、早雲は時代の変化の波を巧みに捉え、これを活用して新しい勢力を確立した人物なのだと言えます。
元々は中央に属する役人でしたが、それゆえに既得権益層の腐敗と、新たな力の勃興に敏感になることができたのかもしれません。
そして乱世向きの、機略に優れて戦いにも強かったところが、一代にして二ヶ国を制するほどの、大きな成功をもたらすことになりました。
既に述べた通り、早雲は単なる私欲によって領地を得たわけではなく、それまでの守護大名たちとは全く異なった、民政を主眼においた統治体制を構築しており、このことが早雲の存在に、歴史的に大きな意義を持たせています。
後に早雲の手法をまねた戦国大名たちが、各地に群がり立つことになりますが、それほどに早雲の施策は、新しい現実に適した、優れたものであったということなのでしょう。
関連書籍
早雲を主人公にした司馬遼太郎の小説です。
伊勢氏の分家に生まれた早雲が、伊豆を相模を制するまでの過程を、物語性豊かに描いています。