北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?

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各地の情勢に介入する

この頃の早雲は、才略に優れた実力者として他勢力から見られるようになっており、今川氏親を後見する立場にもあったことから、各地の戦いに盛んに介入するようになります。

伊豆討ち入りの翌年には、今川軍を率いて遠江へと侵攻し、今川氏の支配領域の拡大に成功しました。

また、同年には関東で発生した、山内上杉家と扇谷上杉家の抗争にも関与し、扇谷上杉家当主・上杉定正の援軍として参戦しています。

扇谷上杉家は、相模(神奈川県)や武蔵(東京・埼玉あたり)に領地を持ち、関東管領職に就く資格も持っている、有力な一族でした。

しかしこの戦いの際に、勇将として知られる上杉定正は、渡河中に落馬して死去してしまいます。

さらには重臣の三浦氏や大森氏も、同じ年にそろって当主が死去しており、扇谷上杉家は、急速にその勢力を衰えさせていくことになりました。

扇谷上杉家は、伊豆の隣国である相模を支配していましたが、それが弱体化したことで、早雲はさらなる勢力拡大の好機を得ることになります。

これが早雲の陰謀によるものであった、と見るのはうがち過ぎかもしれませんが、早雲にとっては、実に都合のいい展開を迎えています。

小田原城を得る

1495年になると、早雲は小田原城主・大森藤頼に盛んに贈り物をし、親しい関係を築くようになりました。

そしてある日、早雲は狩りのため、箱根山に勢子(せこ。狩猟の際に獲物を追い出す役割の者)たちを入れさせてほしいと依頼し、大森藤頼はこれを快く了承します。

しかしこの勢子たちは早雲の兵士が紛争したものであり、大森藤頼の油断をついて、小田原城への攻撃を開始しました。

そして数万の兵が攻めてきた、と流言飛語を振りまくと、おびえた大森藤頼が逃亡したので、早雲はこの城をやすやすと奪取した、という逸話があります。

こういった城取りの物語は他にもいくつか創作されており、これもまた、それに類するものであると見られています。

実情は不明ですが、この時期に早雲が策を用いて大森藤頼から小田原城を奪取したのは確かなようで、遅くとも1501年には小田原城を手に入れ、相模に進出するための拠点を確保しています。

この小田原城は豊臣秀吉に攻め落とされる時まで、長く北条氏の本拠地として機能することになりました。

早雲が小田原城を手に入れることができたのは、早雲と今川氏の軍勢を、弱体化した扇谷上杉家が必要としていたためで、軍勢を派遣する見返りとして、早雲が小田原を領有することを認めたのだと考えられています。

このように、早雲は旧来からの支配者たちの抗争を利用して、抜け目なく勢力の拡大を果たしていきました。

伊豆の支配を拡大し、善政を敷く

こうして相模方面でも勢力を拡大する一方で、伊豆の攻略も進行していきました。

早雲は各地の国人衆を味方につけることで、伊豆の支配領域をじわじわと拡大し、茶々丸を追い込んでいきます。

この過程で早雲は兵の乱暴を厳重に禁じ、病人に無償で医療を施すなど、社会福祉を充実させ、善政をしきました。

そして、それまでは五公五民(50%)が当たり前であった税率を、四公六民(40%)に下げるという政策をとることで、伊豆の領民たちから人気を得ています。

このあたりの早雲の措置には、侵略者に対する領民たちの反抗心を和らげ、自分の統治を受け入れさせようという意図が込められていたと考えられます。

しかし一方で早雲には、それまでの税を徴収するだけで、民政を全く行わない守護大名たちの統治に代わり、積極的に領民の生活水準の向上を図る、新しい統治方式を実践したい、という意欲もあったのではないかと思われます。

というのも、早雲の政策は一時の人気取りではなく、以後も長く北条氏の政策として受け継がれていくことになるからです。

この方針は北条氏に代わって関東の支配者となった徳川家康にも引き継がれ、長く維持されていくことになります。

つまり、早雲は武家による新しい統治体制を構築した、先駆者であったと言えます。

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