北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?

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茶々丸を討つ

こうして軍事と政策の両面で伊豆の侵攻を進めて行った早雲は、1498年の8月に、ついに茶々丸の討伐に成功しました。

この直前の8月25日に、明応の大地震が発生して伊豆は甚大な被害を受けており、茶々丸が籠もる、伊豆半島の南端にあった深根城の周辺も、壊滅状態になっています。

このために茶々丸は抵抗力を失っており、早雲はわずかな兵を動員するだけで、茶々丸を討ち取ることができました。

(茶々丸は伊豆を追われた後、甲斐で討ち取られた、という説もあります)

こうして早雲は伊豆一国を自らの領国にすることに成功し、確固たる基盤を形成しています。

なお、この過程で伊豆半島北部にある韮山城も奪取しており、早雲は生涯に渡って、そこを本拠として活動しました。

小田原城が北条氏の本拠になるのは、2代目の氏綱からです。

独立した大名としての活動を始める

早雲は1504年に、今川軍を率いて三河(愛知県東部)にまで攻め込み、今川氏の勢力の拡大を図りますが、この時には松平長親(徳川家康の先祖)の反撃を受けて失敗しています。

以後は今川氏の家臣としての活動は見られなくなっていき、自身の支配領域の拡大に専念するようになります。

つまりこの頃に、早雲は完全に独立した戦国大名になったのだと言えます。

特段、この時期に独立を志向するきっかけがあったわけではないので、早雲は勢力基盤が確立されるまでは、周囲の要請に応える形で協調していたものの、情勢が整ったことで、自らの真意を明らかにしたのでしょう。

しかし、この時には既に茶々丸の討伐を達成していたため、早雲には支配領域の拡大を正当化する、大義名分がなくなっていました。

このため、以後の戦いでは激しい抵抗を受けるようになります。

既に伊豆と小田原を手に入れ、十分な成功を収めていましたので、そこで満足する道もあったのですが、早雲は留まることなく、南関東の領国化を進行させていきました。

そのような姿勢も、貪欲に勢力の拡大を図る戦国大名のありようを、先駆者として確立するものだったと言えます。

それは早雲の野心によるものだったのかもしれませんし、自らの手でよりよい政治を行う領域をもっと広げたい、という理想に基づくものだったのかもしれません。

いずれにせよ、関東に独自の王国を築くことが、北条氏の事業として継承されていくことになります。

守護大名とは

ここで従来の支配者である守護大名と、早雲のような戦国大名の違いについて、述べてみようと思います。

守護大名とは、室町幕府から任じられ、日本の各地を支配していた大名です。

半済(はんぜい)という、領国内の荘園や国衙領から税の半分を徴収できる、強力な権限をもっており、その収入で軍事力を蓄えていました。

そしてその実力を背景に、領国内の国人衆たちを従え、領内の一円支配を達成していきます。

しかしその立場はあくまでも上から君臨する存在でしかなく、それぞれの土地との結びつきは弱いままでした。

守護大名は複数の国を支配している場合もあり、現地には自分の代理人である守護代を送って税収だけを受け取り、京都で贅沢な暮らしに耽っている者たちも存在していました。

つまりは、貴族的な存在だったのだと言えます。

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