山城国一揆の早雲への影響
この事件に見られるように、守護大名による各地の統治がゆらぎはじめ、その土地に根付いて勢力を持つ者たちの影響力が高まってきていました。
早雲は近くに居住していましたので、当然この事件を知っていたでしょうし、国人衆や農民たちの力を束ねれば、守護大名たちを追い出して新たな勢力を築くことも可能になっているのだと理解し、機会があれば自分でも実践してやろうと、考え始めていたのではないかと思われます。
1488年には、加賀(石川県南部)でも一向一揆が守護大名の富樫政親を攻め滅ぼし、共同で自治を行う「百姓の持ちたる国」に変貌させており、世が変わりつつある兆しは、そこかしこに現れていました。
いわゆる下克上の風潮が、発生していたのです。
再び駿河へ向かう
1487年になると、早雲は姉である北川殿からの要請を受けて、再び駿河へと向かいます。
この時に早雲は大道寺太郎を初めとした、御由緒六家(ごゆいしょろっけ)と呼ばれる6人の家臣を引き連れていた、と言われています。
以前に早雲の調停によって、龍王丸が成人したら当主の地位を譲る、という条件で和睦が成されていましたが、小鹿範満はこの約束を守りませんでした。
このために北川殿は、息子の龍王丸が今川氏の当主になれるよう、早雲に援助を求めたのです。
小鹿範満は扇谷上杉家の家宰で、関東で最大の実力者であった太田道灌(どうかん)に支持されており、それが権力の基盤となっていました。
しかし太田道灌は1486年に主君に暗殺され、このために小鹿範満を支持する勢力は減少しています。
龍王丸を今川氏の当主に据える
早雲はこの状況を見逃さず、駿河の国人衆たちを味方につけて兵力を増大させると、11月に駿河館を襲撃し、小鹿範頼を追い詰めて自害させました。
こうして早雲は、龍王丸を今川氏の当主に据えることに成功します。
龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して今川氏親を名のりました。
この時の早雲の策には、山城国一揆で証明された、国人衆の実力を活用する方針を、見て取ることができます。
興国寺に所領を与えられ、駿河に留まる
早雲はこの時は京都に戻らず、駿河の東辺にある興国寺に所領を与えられ、今川氏の家臣となります。
まだ年若い氏親を支えて欲しいと、姉から要請されたのかもしれません。
伊勢氏の当主・貞宗(早雲の従兄弟)もまた、早雲が駿河に留まった方が統治が安定し、伊勢氏の影響力が行使しやすくなると判断し、承認したのだと思われます。
早雲は氏親を補佐してその職務を代行しており、駿河守護代の立場にあったと見られています。
今川氏は後に守護大名から戦国大名へと生まれ変わり、駿河や遠江の支配を維持していくのですが、それには氏親が早雲の補佐を受け、国人衆や住民たちとのつながりを重視すべきだと教えられたことが、影響したと考えられます。
こうして早雲は中央政界から離れ、東海から関東にかけての地域で活動していくことになりました。
もとより分家の出であったため、伊勢氏の当主になれる見込みはなく、一役人で終わるよりも、地方で自らの勢力を構築し、新しい統治を行ってみようと、密かにそのような抱負を抱いていたかもしれません。
1489年には、主君の義尚が酒色に溺れて若死にしており、このことも、早雲が東海に土着することを後押ししたと思われます。
結婚する
こうして駿河でひとかどの地位を得た早雲は、同じく奉公衆であった小笠原政清の娘・南陽院殿と結婚しました。
早雲が1432年に生まれた、という説を採用すると、55才にしてようやく初めての結婚をしたことになります。
1456年説ですと31才ですので、こちらの方が信憑性が高いように思えますが、現在はまだどちらが正しいのか、定まっていません。
この時代は10代で結婚するのが当たり前ですので、どちらにしても、早雲はかなりの晩婚だったことになります。
ともあれ、南陽院殿との間にはほどなくして嫡男の氏綱が生まれ、早雲は後継ぎを得ています。
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