北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?

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始めて検地を実施する

こうして戦いが盛んになっていく中で、早雲は戦国大名として、始めて検地を実施しています。

検地とは、支配領域の田畑に課税するために、その広さや質を調査し、台帳を作る事業のことです。

その台帳を元にして適正な額の税を徴収し、勢力の維持・拡大のために用いました。

当時の日本各地には、荘園や国衙領、武士の私有地などが混在していて、土地の所有者が錯綜しており、徴税の仕組みも一元化されていませんでした。

早雲はこれを改めるために検地を実施し、領内の状況を把握し、安定して徴税ができる仕組みを整えたのです。

早雲は税率を低く設定していましたので、その分だけ厳密に、もれなく税を徴収する必要があった、という事情もありました。

従来の守護大名たちは、家臣団や一族とのしがらみに囚われて、彼らの所有する土地の調査は行えなかったのですが、早雲は新興勢力であることの利を活かし、大規模な検地を実行しています。

この政策は、後に織田信長や豊臣秀吉がさらに大規模に各地で実施しており、戦国大名が勢力を確立する上で、欠かせない政策として認識され、広まっていきます。

早雲は戦いに強いだけでなく、優れた内政手腕を備えており、それが北条氏の勢力を強化することにつながっていきました。

越後でも下克上が発生する

この時期には、小田原の周辺を除けば、関東および越後は早雲と敵対する状況にありました。

しかし、1507年になると、越後守護代の長尾為景(ためかげ。謙信の父)が、越後守護の上杉房能を殺害する事件が発生します。

従来の上下関係を覆し、のしあがろうとする下克上が越後でも発生したのですが、早雲はこの期を見逃さず、長尾為景と同盟を結びます。

こうして越後を敵から切り離し、上杉顕定を牽制しました。

この年には中央でも、権力を掌握していた細川政元が暗殺される事件が発生しており、室町幕府の権力機構の崩壊が、さらに進行する状況になります。

早雲はそのような情勢を利用し、崩壊の隙間をぬうようにして、自身の勢力を拡大していきました。

江戸城にまで攻め込むも、反撃を受けて敗退する

早雲は1510年に軍勢を率い、上杉朝良の新たな本拠となっていた江戸城に迫ります。

この時に上野に出兵していた上杉朝良は急ぎ兵を戻し、早雲と武蔵や相模で対戦しました。

早雲は武蔵と相模の国境付近にある、権現山城の主を調略で寝返らせますが、山内上杉家の援軍を得た上杉朝良の反撃を受け、この城を奪い返されてしまいます。

さらに、上杉朝良の家臣で、三浦半島に勢力を持つ三浦義同(よしあつ)に、平塚にある住吉要害を攻め落とされてしまいました。

このため、早雲は武蔵から手を引かざるを得なくなります。

この時には、そのまま小田原城にまで攻め込まれ、早雲は手痛い敗戦を経験しました。

山内上杉家と扇谷上杉家を同時に敵に回して勝利するのは、さしもの早雲にとっても、難事だったのだと言えます。

早雲はひとまず上杉朝良と和睦し、この窮地を切り抜けています。

敵の内紛

こうして早雲の相模・武蔵への進出計画は頓挫するかに思われましたが、山内上杉家で発生した内紛によって、再び早雲に好機が訪れることになりました。

既に述べたことですが、山内上杉家の当主・上杉顕定は、先に長尾為景によって殺害された、越後守護・上杉房能の兄でした。

上杉顕定は弟の仇を討つために長尾為景と戦い、越後まで攻め込みますが、やがて反撃を受けて戦死してしまいます。

すると、上杉顕定の二人の養子が家督争いを始め、これに古河公方家も二手に分かれて支援を行ったことから、混乱が助長されていきました。

上杉朝良はこれを調停しようと努めますが、成功せず、早雲と敵対する勢力が弱体化することになります。

このように、次から次へと内紛が発生するのは、この時代には嫡子相続の原則が存在しておらず、当主が亡くなると、その子どもや親類たちが家督争いを始めるのが通例となっていたためです。

これは戦国時代が進んでもさほど変わらず、例えば織田信長も弟の信行と争っており、後にその子どもたちも争うことになります。

こうした状況もまた、早雲を利することになりますが、同じ羽目に陥らぬよう、北条氏は一族の結束を重視して、嫡男が家督を継ぎ、弟たちがそれに協力する体制を構築することで、内紛が起こらぬように努めました。

この面でも北条氏は先駆的に、勢力を安定させる仕組みを構築したことになります。

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