真田信幸は高名な昌幸の長男で、真田家を発展させつつ、長く存続させることに成功した人物です。
昌幸や弟の幸村(信繁)に比べるとさほど知られていませんが、彼もまた、優れた能力を備えて戦国の世を生き抜いたつわものです。
この文章では、父や弟とは異なった信念を持って生きた信幸の生涯について、書いてみようと思います。
【真田氏の存続に力を尽くした信幸の肖像画】
武藤喜兵衛の子として生まれる
信幸は武田氏の家臣・武藤喜兵衛の長男として、1566年に生まれました。
この頃はまだ高名な武田信玄が健在で、武田氏が強勢を誇っていた時代です。
しかし信幸が成長していくのとは逆に、時がたつにつれて武田氏は衰退して行きます。
長篠の合戦と立場の変化
1573年に信玄が三河(愛知東部)攻略の最中に病没し、武田勝頼がその後を継ぎました。
そして1575年に行われた織田信長・徳川家康連合軍と、勝頼との間で行われた「長篠の戦い」で、武田軍は1万の兵を失うほどの大敗を喫します。
この戦いに参加していた真田氏の当主・信綱も戦死してしまいます。
そのため、本来は真田氏を継ぐ立場にはなかった武藤喜兵衛のところに家督が巡ってきます。
喜兵衛は信綱の弟で、甲斐の国人領主である武藤家に養子に出されていたのですが、この機に真田姓に復帰し、昌幸と名のりを変えています。
以後の昌幸は勝頼のために働き、上野(群馬)方面の担当者となり、一族の矢沢氏と共に、多くの武功をあげて活躍します。
元服と武田氏の滅亡
信幸は幼いころ武田氏への忠誠の証として人質になっており、武田氏の本拠地・甲斐(山梨)で成長していきました。
そして1579年の時に13才で元服し、信幸を名のるようになります。
この「信」の字は武田信玄の一字を与えられたもので、当時の真田氏が、武田家臣団の中で高い地位を築いていたことがうかがえます。
勝頼の後継者である武田信勝も同時に元服しており、信幸は将来、信勝の忠実な家臣として働くことが期待されていたと思われます。
しかしそれから3年後の1582年、織田信長が大軍を動員して武田氏討伐を行います。
織田軍が武田領に侵攻して来ると、武田家臣団の中から裏切り者が続出しました。
このため、武田氏の勢力は組織的な抵抗ができないまま、もろくも崩壊します。
そして勝頼も信勝も、ともに武田氏ゆかりの天目山で自害して果てました。
こうした動きの中、信幸は父・昌幸の領地である上田に逃れました。
幼い日から成人するまでの過程で、武田氏の衰退と滅亡の様子を、つぶさに目の当たりにしたことになります。
劣勢にたつと人心が荒れ、家中で不和が起こり、やがては親しい人々が死に追いやられていく様を見て、心を痛めることもあったでしょう。
そういった経験は、後の信幸の決断や行動に、大きな影響を与えたと思われます。
父の片腕として働く
甲斐や信濃(長野)が織田信長に支配されるようになると、昌幸は信長に臣従し、上田の領地を安堵されます。
しかしそれからわずか3ヶ月後、信長は本能寺で家臣の明智光秀に討たれてしまいます。
その結果、甲斐や信濃から織田方の武将は撤退し、一時的に支配者のいない空白地帯となります。
この機に勢力を拡大すべく、北の上杉氏、南の徳川氏、東の北条氏が同時に侵攻してくる混沌とした状況が生まれました。
こうした中、真田氏は目まぐるしく従属する勢力を変えながら、自家の存続を図っていくことになります。
そして信幸は父から一軍の指揮を任され、その片腕として各地を転戦します。
この時の信幸はまだ17才でしたが、ひとりの将としての活動を開始することになりました。
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