真田信幸(信之)は、どうして昌幸や信繁とは別の道を歩んだのか?

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家康の養女と結婚する

その後も徳川軍と真田軍の小競り合いは続きますが、やがて昌幸は中央で天下人となっていた豊臣秀吉に臣従します。

家康もまた秀吉に臣従したため、昌幸は秀吉の仲介で家康と和睦し、真田氏は徳川氏の与力大名として組み込まれることになります。

これは秀吉直属の大名でありながら、徳川氏に力を貸す立場になったということです。

こうした状況の変化を受け、昌幸は1589年に、信幸を家康の本拠である駿府城に出仕させ、関係の改善を図ります。

そして家康は重臣・本多忠勝の娘の小松姫を養女とし、信幸と結婚させる措置をとりました。

これにより、信幸は家康の娘婿という立場になります。

最初は本田忠勝の娘とそのまま結婚させるつもりだったようですが、昌幸がこれをはねつけたため、家康の養女になるという手順が踏まれました。

昌幸からすれば、家康の家臣と信幸を結婚させてしうと、将来は真田氏が徳川氏の家臣同様の扱いをされてしまうことになるので、これを嫌ったようです。

昌幸は自家の独立と尊厳を守ることを重視していましたが、家康からすれば小憎らしく思えたことでしょう。

ともあれ、こうして信幸は家康と縁戚になり、徳川氏と本多氏との関わりが強くなります。

信幸と小松姫の夫婦仲はよかったようで、後に二男二女をもうけるなどしています。

沼田城主になり、徳川との関係が深まる

1590年には秀吉による北条征伐が行われ、信幸も父や弟と共にこの戦いに従軍します。

そして上野の松井田城攻めの際に武功をあげるなどして活躍しました。

戦後になると、上野の沼田城3万石が真田氏の領地として確定し、信幸はその城主に任命されます。

そして関東に移封された徳川氏配下の大名として組み込まれます。

父・昌幸は秀吉直属の大名のままでしたから、この時に信幸は父から独立したことになります。

やがて伊豆守や侍従といった官位にも叙任され、名実ともに一個の大名としての立場を獲得しました。

こうした経緯から、信幸は父や弟とは異なり、徳川氏との関係が深い武将になっていきます。

そして信幸は、家中の結束が強い徳川氏の人々と接する内に、そこに頼むに足るだけの力があることを見出していったと思われます。

父・昌幸は機略に富み、武勇にも優れた武将でしたが、一方でその判断には常に投機性が含まれており、ひとつ間違えれば真田氏を滅ぼしかねないところがありました。

武田氏の滅亡を目の当たりにした信幸からすれば、父のやり方には不安を感じるところがあったかもしれません。

そうした徳川氏の安定感と父の危うさとの対比が、後の信幸の決断に影響したと思われます。

関ヶ原の戦い

秀吉の死後、1600年に石田三成が、天下取りの野心を露わにした家康打倒のために挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いが行われることになります。

この時、昌幸と信幸は、それぞれに所属する勢力が分かれました。

昌幸と弟の信繁は三成の西軍につき、信幸は家康の東軍につくことを決断します。

信幸の目から見れば、三成には大軍を統制するだけの力量は不足しており、西軍は寄せ集めに過ぎませんでした。

それに比べて家康の統率力は三成とは比較にならないほど高く、東軍が勝利する可能性は高いと判断したのでしょう。

この時の真田氏の別れは、どちらが勝利しても真田氏を残すためだったという説もありますが、おそらく信幸はこれまでの経緯から、徳川方につくのが真田氏を存続させる上で正しい選択だと、独自に判断していたものと思われます。

一方で、昌幸の妻は石田三成の血縁者で、信繁の妻は西軍の首謀者の一人である大谷吉継の娘でしたので、この二人は西軍とのつながりが深い状態にありました。

そういった事情もあり、親子で属する勢力が分かれることになります。

もちろん昌幸のことですから、単に血縁に引っ張られただけでなく、西軍について自分が力を尽くせば勝てるはずだと、そのような算段を立ててもいたことでしょう。

しかしその判断が誤りであったところに、昌幸の能力の限界があったのかもしれません。

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