松代への移封
信繁の働きの結果、真田氏は一時幕府から睨まれることになりますが、信之は積極的に幕府の公役を務めるなどして家の存続を図ります。
1617年には家康の死後、ただ一人の支配者となった将軍・秀忠が信之の屋敷を訪れて饗応を受け、大変喜んで帰ったという記録があります。
こうした様子を見るに、信之個人は将軍家から信頼を得ることに成功していたようです。
(信之は父や弟の影響で秀忠から嫌われていたという説がありますが、これは誤りのようです。)
その結果、1622年には信濃松代藩に、3万石の加増を受けた上で移封されることになりました。
松代は徳川一門である松平氏や、譜代大名である酒井氏などが治めていた土地で、北信濃の重要拠点です。
戦国時代には武田信玄の重臣である高坂昌信が城主を務め、上杉謙信の侵攻を防いでいた拠点でもあります。
そこを任されるほどに、秀忠からの信頼を勝ち得ていたことになります。
真田氏は、この時から真に譜代同然の扱いを受けるようになったと言ってよいでしょう。
その最期
この後も信之は長生きをして真田氏の立場の安定に努め、91才の時には、新たに真田氏の当主となった孫の幸道がまだ2才だったため、後見役として藩政を見るなどしています。
その2年後、幸道の後見を譜代大名である内藤忠興に任せ、93才で死去しました。
それからの真田氏は江戸時代を通じて存続し、明治維新後には子爵家となっています。
信之が父とたもとを分かってまで選択した道のりは、その後も数百年に渡って継承されていったことになります。
弟の信繁は戦場で命を散らしたことで名を後世に残しましたが、信之は大名家という大きな実体を持つ真田氏を、長く後世にまで残したことになります。
信之の密かな反骨
こうして信之は自らが目指した道を生涯の最期まで歩みましたが、最初に述べたとおり、弟に比べるとその知名度は劣っています。
天下人である徳川家康に一泡吹かせた信繁の生涯の方が痛烈であり、多くの人にとって心惹かれるものがあるのでしょう。
それに比べれば、家康や秀忠に従って家の存続と発展を目指した信之の生涯は、地味な物に見えてしまうかもしれません。
強い者に従っただけではないか、と見ることもできるでしょう。
しかし、現実の人々の生活において、より多くの幸福をもたらしたのは信之の方です。
真田氏に仕える家臣たちや領民を守り、よりよい暮らしをもたらしたのは信之の働きによるものです。
最初の方に書いたとおり、おそらくは武田氏の滅亡と、そこからもたらされる悲惨を目の当たりにして、自分の家の者たちは同じ目にあわせるまいと考え、あえて徳川氏に従う道を選んだのでしょう。
信之の長持ち
最期にひとつの挿話を紹介して、この文章を終わりたいと思います。
信之はひとつの長持ち(物入れ)に寝ずの番をつけ、厳重に守らせていました。
これには家康から拝領した短刀が入っていると思われていましたが、明治時代になって開いてみると、中には石田三成と信之との間での、親しいやり取りが記された書簡が入っていました。
三成と信之は縁戚関係にあり、個人的な付き合いもあったようです。
支配者である徳川氏へ反抗した者とのやり取りを大事に保存していたわけですから、江戸時代にこれが発覚した場合には、せっかく勝ち得た将軍家からの信頼がゆらぐ可能性もありました。
それをあえて長期間に渡って保存させておいた信之の心の深いところには、父や弟と同じ反骨精神がしまい込まれていた、ということなのかもしれません。
それは真田氏存続という信之の信念のため、隠す必要のある江戸期には、表に出ることはありませんでした。