立花宗茂は戦国時代に、主に九州で活躍した武将です。
「立花の3千は他家の1万にも匹敵する」と言われたほどの精強な軍団を率い、各地の戦いで目覚ましい武功を立てました。
宗茂の指揮能力は際立って優れており、そのうえ武術の達人でもあったことから、「西国一」や「日本無双」といった賞賛を送られています。
また、宗茂は生涯を通して忠義の精神を貫いており、戦乱の世において一度も人を裏切ったことがなく、この点でも豊臣秀吉や徳川家康といった為政者たちから高く評価されています。
この文章では、そんな宗茂の生涯について書いてみます。
【立花宗茂の肖像画】
高橋紹運の長男として生まれる
宗茂は1567年に、大友宗麟に仕える高橋紹運(じょううん)の子として生まれました。
大友氏は北九州で栄えた戦国大名で、一時は九州の半分を支配するほどの勢威を誇っていました。
父・紹運はその大友氏の重臣であり、こちらも「名将」と呼ばれた優れた人物です。
宗茂はその長男で、高橋氏の跡取り息子として育てられました。
このため、はじめは高橋統虎(むねとら)と名のっています。
立花道雪から婿養子に望まれる
しかし1581年、宗茂が14才の時に、紹運の同僚である立花道雪から、宗茂を婿養子に向かえたい、という要望が届きます。
道雪には娘の誾千代(ぎんちよ)しか子どもがいませんでした。
このため、当時としては珍しく、娘に自分の城の支配権を譲っていたのですが、やがて宗茂が優れた器量の持ち主であることを知り、婿養子として向かえたくなったようです。
紹運にとって宗茂は長男であり、高橋家の家督を継がせるつもりでいたため、初めはこれを断っています。
しかし道雪から何度も熱心に要請を受けたため、ついに紹運が折れ、宗茂を立花家に譲ることにしました。
こうして宗茂は道雪の婿養子となり、誾千代と結婚しています。
一方で高橋氏は、宗茂の弟の統増(むねます)が継ぐことになりました。
大友氏は劣勢に置かれていた
この頃の大友氏はかつての勢力を失い、龍造寺隆信や島津義久ら、他の九州の強豪たちから圧迫されるようになっています。
大友氏は1578年に島津氏との決戦である「耳川の戦い」に大敗し、この時に多数の重臣を失ってしまい、以降は急速に衰退していきました。
このため、宗茂が成人した頃には、紹運や道雪の奮闘によって、かろうじてその領地を維持しているような状況でした。
しかし紹運も道雪も、どれだけ劣勢に陥りながらも大友氏を見捨てることはなく、その命を賭して主家を守り抜こうとします。
そのようにして、忠義を貫いて逆境に立ち向かう実父と養父の姿が、宗茂の人格の形成に、強い影響を及ぼすことになったと思われます。
初陣で敵の武将を討ち取る
宗茂は立花家の養子となった年に初陣を飾っています。
通常、初陣では比較的安全な作戦に参加することが多いのですが、宗茂ははじめから最前線で、敵の武将と直接戦うことになりました。
敵は大友氏と筑前(福岡県)を巡って争っていた、秋月氏と筑紫氏の軍勢です。
この時に作戦を主導したのは養父の道雪と、実父の紹運でした。
紹運が敵の正面に軍勢を展開して食い止め、その間に道雪が敵の側面から攻撃をしかけて打ち崩す、というのがこの作戦の内容です。
宗茂は側面からの襲撃部隊に参加し、150人の兵を率いました。
そして敵と対峙すると、宗茂は馬上から矢を放ち、堀江備前という敵将の左腕に命中させます。
このため、堀江備前はやむなく手にしていた長刀を捨て、素手で宗茂に挑みかかって来ました。
組み打ちが得意な宗茂は堀江を圧倒し、あっさりと組み伏せてしまいます。
そうして敵の動きを封じたところで、家臣に討ち取らせて手柄を立てさせました。
宗茂は武術の達人として成長していきますが、14才にして既に、一個の戦士として並々ならぬ力量を備えていたことがうかがえます。
娘に後を継がせるつもりであった道雪が気を変えたのは、宗茂があまりに優れた武者だったからなのでしょう。
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