優れた指揮官としての力量を見せつける
宗茂は後に、抜刀術の流派を立ち上げるほどに武術を得意としていたのですが、軍を指揮して戦いを勝利に導く才能にも恵まれていました。
初陣の翌年には再び秋月氏や原田氏との戦いになり、宗茂は500の兵を率いて参戦しています。
敵軍は2000で、養父の道雪は1000の兵力でこれを迎え撃ちました。
戦いが始まると、少数の道雪の軍は敵に包囲されますが、宗茂は300の鉄砲隊に援護させ、同時に残る200の兵にはたくさんの旗を立てさせ、敵にその様子を見せつけます。
この計略によって、多数の大友軍が援軍に駆けつけて来ているかのように偽装し、敵に警戒心を抱かせ、撤退に追い込みました。
さらに宗茂は、道雪の重臣である由布惟信(これのぶ)や小野鎮幸(しげゆき)らを率いて原田氏の砦を襲撃し、敵兵300人のうち、半数の150人を討ち取るという大戦果を上げました。
さらに撤退する敵に追撃をかけ、その居城を攻め落としてしまいました。
劣勢を覆しただけでなく、そのまま敵の拠点を奪ってしまうという鮮やかな手腕により、この戦いを勝利に導いています。
この時に宗茂はまだ15才であり、末おろそしい若武者であったと言えるでしょう。
8倍の敵を討ち破る
その後も宗茂は道雪や紹運が主導する戦いに参加し、常に目立った戦功を立てています。
そして1584年になると、道雪と紹運は大友氏が行った筑紫の奪還戦に参加するため、領地から不在となりました。
この時に宗茂は1000の兵で、本拠である立花山城の守備を任されています。
すると秋月種実が率いる8000の大軍が、道雪の不在を狙って立花山城に押し寄せてきました。
8倍もの敵に襲撃されたため、城内で動揺が発生し、櫻井中務という武将が寝返りの気配を見せます。
宗茂は果断にも、すぐにこれを粛清して城内の結束を固めました。
そして夜になると部隊を3つに分けて城から討って出て、夜襲と火計によって敵を散々に打ちのめします。
秋月軍は夜襲を受けて混乱に陥り、やがて同士討ちを始めしまい、このために甚大な被害を受けて撤退しました。
こうして宗茂は、8倍もの敵軍を討ち破ることに成功しています。
さらに宗茂は周辺の敵の砦や城に積極的に攻撃をしかけ「道雪が不在でも立花軍はあなどれない」と敵に印象づけることで、それ以上の侵攻が発生することを防ぎました。
宗茂は単に戦いに強いだけでなく、敵軍の心理を操作するための、戦略を考える能力をも備えていたようです。
大友氏の反撃と、養父の死
道雪と紹運の奮戦のかいがあって、大友氏の勢力は少しずつ復興してきていました。
そして1585年には筑後(福岡県西部)の大半を取り戻すことに成功したのですが、この年の9月に、道雪が戦陣で病没してしまいます。
この戦いには紹運も同行しており、必死に看病をしたのですが、回復はかないませんでした。
大友氏を支える両輪の一方が世を去ったことで、その勢力は再び傾きはじめて行きます。
そして養父の死によって、宗茂は立花氏の家督を継承することになりました。
この翌年には、さらなる試練が大友氏と、宗茂に降りかかってきます。
島津軍の侵攻
道雪の死の翌年、1586年には島津軍が5万を号する大軍を率いて筑前に侵入して来ました。
この頃には島津軍は龍造寺氏を降し、九州の大半を制する大勢力に成長していました。
そして九州を完全に制覇すべく、勢いに乗って大友領に乱入して来たのです。
もはや単独で抵抗するのは不可能になっていたため、大友宗麟は中央を制して天下人となった豊臣秀吉に臣従を誓い、救援を要請しています。
しかし豊臣軍が到着する直前に島津軍の侵攻を受け、大友氏は滅亡の危機にさらされました。
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