「東西無双」と賞賛される
一揆の鎮圧が完了した後、宗茂は京に上洛し、そこで従五位下・侍従に叙任されました。
そして豊臣姓も与えられ、その地位を大いに高めています。
さらに1590年には北条征伐に従軍し、小田原城を包囲していた際に、秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評され、天下で一、二を争う優れた武将である、と諸大名たちに紹介されています。
これによって宗茂の存在は、九州以外の地にも広く知れ渡ることになりました。
両者がともに戦う機会は少なかったのですが、本田忠勝は宗茂に好感情を抱いていたようで、後に思わぬ形で縁を持つことになります。
文禄の役に参加する
1592年から、秀吉は西日本の諸将に動員をかけ、朝鮮半島への遠征を開始します。
この戦役は当時の年号を取って「文禄の役」と呼ばれています。
秀吉はこの頃に、日本と明(中国)、インドをまたぐ大海洋帝国を築こうという野心を抱くようになっており、まずは朝鮮半島を明への進路として抑えるべく、侵攻を始めたのです。
宗茂は養父・小早川隆景が主将を務める6番隊に参加し、2500の兵を率いて渡海しました。
そして他の部隊とともに朝鮮半島を北上し、各地で敵を討ち破りますが、やがて朝鮮の義勇兵や明からの援軍に脅かされ、その進軍が停滞します。
やがて李如松(りじょしょう)という明の名将が率いる部隊が南下を始め、これを迎撃すべく、碧蹄館(へきていかん)という土地で大規模な会戦が行われることになりました。
宗茂はこの時、弟の高橋統増と共に先鋒に任じられ、戦いの帰趨を決する重要な役割を担うことになります。
碧蹄館の戦い
宗茂はまず、偵察隊を夜中のうちに出発させ、敵情を探らせます。
すると、敵軍は未明のうちから行軍を開始しそうな様子であることがわかり、宗茂も早朝のうちに自軍を動かすことにします。
まず500の先鋒隊を敵の正面に出し、わざと旗の数を少なくして、少数の部隊であるかのように見せかけます。
敵がそれに釣られて挑みかかって来たところで、宗茂が率いる2000の本隊が敵の左側に迂回し、側面から攻撃してこれを撃破しました。
この時の敵軍は6千程度で、立花軍よりも多数でしたが、もろくも崩れ立ち、宗茂は猛烈な追撃をしかけて戦果を拡大しました。
その後、明軍が逆襲をしかけて来ますが、宗茂は弟ともともに奮戦してこれを撃退します。
そうしているうちに、やがて小早川隆景が率いる本隊が戦場に到着したので、いったん引き下がり、兵たちに休息を取らせました。
宗茂と上杉謙信
宗茂はこの時に、敵の大軍を前にしてゆっくりと握り飯を食べていた、という逸話があります。
家臣が「どうしてそんなことをするのですか」と尋ねると、「上杉謙信公が小田原城を包囲していた時にこうしていた、と聞いたからだ」と宗茂は答えました。
宗茂は上杉謙信を尊敬しており、その事績や戦術について詳しく調べていたようです。
他にも、「謙信公は8千の兵を率いて戦うのが一番得意だと言っていたそうだが、自分は2千くらいの兵を率いるのが一番得意だ」といったことを述べています。
この適正な兵数についてはかなりの確信があったようで、秀吉から領地の加増の話を持ちかけられたとき、「今の領地で養える兵数が自分には適しているので、これ以上の領地は不要です」と言って断っています。
秀でた武将たちでも、それぞれ指揮するのに適した兵数があるというのは、なかなか興味深い話です。
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