平山城からの脱出
しかし立花軍が入城した直後、平山城は3000の敵兵に包囲されてしまいました。
この時に宗茂は、翌日に立花軍は撤退を開始する、という虚報を敵に流します。
その上で自軍を再び3隊に分け、由布惟信に敵を奇襲させ、包囲網の突破を図りました。
しかしこれに続いた宗茂の率いる本隊が敵に包囲されてしまい、危機に陥ります。
この時に宗茂は、自ら馬上で太刀を振るって敵兵を斬り伏せ、有働下総守という一揆勢の武将を討ち取っています。
やがて先行していた由布惟信が引き返し、後詰めの小野鎮幸が合流して逆包囲したことで、一揆勢を蹴散らすことができ、立花軍は平山城からの脱出に成功しました。
由布惟信と小野鎮幸
この2つの戦いに見る通り、宗茂は自軍を3隊に分けて活動することが多かったのですが、これを可能にしていたのが、由布惟信と小野鎮幸の存在でした。
彼らはいずれも養父・道雪の代から立花氏に仕える武将です。
惟信に至っては、元々は独立した家柄の頭領だったのですが、道雪に仕えるために家督を長男に譲り、自身は立花氏の家臣になったというほど、道雪に対する忠誠心の厚い人物でした。
道雪は自軍を「正」と「奇」の2つの部隊に分け、正の将を惟信が、奇の将を鎮幸が担っています。
両者は生涯を通して60回以上の戦闘に参加し、そのほとんど全てで目立った戦功を立て、70枚以上の感状を与えられるほどの勇士でした。
宗茂が率いる立花軍の強さは、この両将を始めとした、道雪の育て上げた将兵の強さによるところが大きく、それを宗茂の優れた戦術の才が増幅させたことで、他家よりも秀でた戦果を上げることを可能にしました。
小早川秀包と義兄弟になる
平山城から脱出した後、立花軍は一揆勢の城の攻略に取りかかります。
ある時には、1日に13度の戦いを行い、7つの城を攻め落とすというすさまじい戦果を上げており、他家の兵も肥後に続々と侵入したことから、一揆勢の勢力は急速に衰退していきました。
宗茂が一揆勢の篭もる田中城を包囲していた際に、小早川秀包(ひでかね)という武将と意気投合し、両者は義兄弟の契りを結んでいます。
秀包もまた、自ら敵将を討ち取れるほど武術に秀でた人物で、宗茂にも劣らぬほどの勇士でした。
秀吉にもその実力を認められ、後に宗茂と同格の13万石の大名になっています。
秀包は中国地方の覇者・毛利元就の九男でしたが、子どもがいない小早川隆景の養子になり、小早川姓を名のるようになったという経歴の人物です。
小早川隆景は元就の三男で、年の離れた弟を養子として向かえた事になります。
この時に隆景は宗茂の養父になっており、宗茂は小早川家との関わりが深まっていきました。
隆景は秀吉から「西国の統治を任せたい」と言われたほどの優れた器量を持つ武将で、実父も養父も失っていた宗茂にとって、頼もしい存在であったと思われます。
一揆の首謀者を放討ちで処刑する
この年の12月には、一揆の首謀者である隈部親永(くまべ ちかなが)を、佐々成政とともに追いつめて降伏させます。
宗茂は隈部一族の12人を預かり、彼らを処刑することになりました。
この時、宗茂は立花氏から同じ12人の討手を用意し、彼らと真剣勝負をさせました。
その上で彼らを切腹させ、武士としての名誉を保った上で死を向かえられるようにと、特別な措置を取っています。
武士にとっては磔や打首などで、一方的に処刑されるのが最も不名誉なことであり、敵と戦って死ぬのが最も名誉なことでした。
このため、立花氏の武士と戦ってから自害するという形式を取ることで、隈部一族に名誉ある死を与えたのです。
このいきさつを見ていた秀吉の重臣・浅野長政が感じ入って秀吉に報告し、秀吉は宗茂を賞賛した、と伝えられています。
現代人からするとわかりづらい感情ですが、武士たちにとっては、己の名誉を保てるかどうかという問題は、生死以上に重要な意味を持っていました。
このことから、宗茂は敵の名誉や体面にも配慮できる、細やかで行き届いた神経の持ち主であったことがわかります。
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