立花宗茂 「日本無双」と呼ばれた名将の生涯について

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岩屋城の籠城戦

この時に父・紹運は763名の家臣とともに、岩屋城に籠城して迎え撃つことを決意します。

対する島津軍は3万を超える戦力を岩屋城に差し向けており、どうあっても勝ち目のない戦いでした。

岩屋城は大友軍の最前線の城であり、ここに島津軍が攻めかかって来ることは確実視されていました。

ですので、紹運は守備につけば必ず敗れるとわかっていて、あえて籠城したことになります。

ここを突破されれば宗茂が守る立花山城まで島津軍が容易に侵攻できることになり、これを防ぐ意図がありました。

また、この頃には既に豊臣方が出陣を準備している、という情報が届いており、援軍の到着まで時間を稼ぐため、紹運は囮となって徹底抗戦することを決意していたのです。

宗茂からの援軍

こうして父が決死の戦いに臨もうとしていましたが、宗茂は立花氏の当主であり、立花山城を守備する責任があったため、自らは救援に赴くことができませんでした。

このため、家臣たちに岩屋城へ援軍を送りたいと話します。

宗茂は養子に来た立場であったため、死が確実なこの任務を受け入れてくれる家臣がいるかどうかを、危ぶんでいました。

しかし宗茂の不安は覆され、吉田兼正をはじめ、多数の武者が「岩屋城に行きます」と名のり出ました。

これを受け、宗茂は兼正を始めとした20名に岩屋城へ向かうようにと命じました。

兼正は出陣にあたり「武士の道は義に殉ずることにあると思います」という言葉を残しています。

こうして宗茂が精一杯の援軍を送って後、間もなく岩屋城で戦いが始まります。

岩屋城の戦い

圧倒的な兵力差があったため、島津軍は戦いの前に降伏を勧告しますが、紹運はこれを退けています。

このために島津軍の攻撃が開始されますが、紹運の采配と鉄砲隊の活躍によって、40倍もの敵の攻撃を撃退し続けました。

島津軍は苦戦をしいられたことから、「紹運の子どもを人質に差し出せば和睦する」と交渉をもちかけますが、これも紹運は拒絶しました。

この防衛戦は15日にも渡って続き、この間に島津軍の損害は数千人規模へと拡大し、上井覚兼という武将が負傷するなどしています。

それほどに紹運の指揮ぶりは優れていたのですが、多勢に無勢であり、ついに詰の丸という防御施設に追いつめられてしまいました。

もはや残る兵もわずかとなり、これ以上の継戦は不可能だと悟った紹運は、高櫓に登り、そこで切腹して果てました。

残った者もみな討ち死にするか自害しており、およそ800名の城兵は全滅しています。

この中には、援軍に赴いた吉田兼正らも含まれています。

この戦いで島津軍は4500人という多大な死傷者を出しており、この部隊は態勢を立て直すため、一時撤退を強いられることになりました。

800名を討ち取るのに6倍もの損害を受けた計算になり、紹運と家臣たちの奮闘ぶりが、どれほどすさまじいものであったのかがうかがい知れます。

島津軍への反撃

こうして岩屋城が陥落した後、立花山城が包囲されますが、宗茂は防衛戦を行い、1ヶ月間に渡って守り通しています。

そして秀吉の意を受けた毛利軍が九州に到着すると、これと協力して積極的な攻勢に出ました。

まず、降伏すると偽って島津軍の陣地を襲撃し、数百人の敵兵の首を取る戦果を上げました。

そして島津軍に味方して攻め寄せてきた原田氏や秋月氏の軍勢を攻撃し、合わせて千人以上の敵兵を討ち取っています。

やがて秀吉が20万という大軍を率いて九州に上陸を開始すると、島津軍は本格的に筑前から兵を引いて行きますが、宗茂は単独で追撃をしかけ、再び数百の敵兵を討ち取るとともに、岩屋城の奪還にも成功しました。

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